シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№3

 

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21才・・・1818年7月7 エスターハージ伯爵家の音楽教師として、ハンガリーのツェリスへの5か月の旅券が交付された。

 

エスターハージ伯爵家の二人の令嬢、16歳のマリーアと13歳のカロリーネ

シューベルトは、カロリーネのほっそりとした子供らしい背中に、しぐさに、愛らしい言葉遣いに、自分でも気づかないような優しい恋心を覚えていた。

 

しかし伯爵家の小間使い、皆にペーピと呼ばれた美しいヨゼフィーネとの密やかな恋が始まる頃には、カロリーネはむしろ彼のアバンチュールの噂を面白がった。

愛することができるには、カロリーネはまだ幼すぎた。

 

ヨゼフィーネは彼より少し年上で、男とつきあうことにも慣れて、必死で危険を恐れるすべを心得ていたが、優しく言い寄ってくる彼には心を動かされた。

 

シューベルトとヨゼフィーネ、ふたりの愛の交わりが始まり、やがて晩年のシューベルトを苦しめる病へと続くもとになったとも言われている。

 

この頃、シューベルトの最良の歌い手の一人ともいわれるシェーンシュタインが、彼にその勤めを思い出させ、彼を音楽へ呼び戻した。

 

11月・・・ツェリスを後にするまで、ヨゼフィーネとの愛を重ねた。

 

彼はどこえかえるのか?

彼は家には帰らず、友人の詩人マイアーホーファーのところに転がり込んだ。

 

彼らはほとんど毎晩、宿屋を兼ねた居酒屋へ、私的なパーティーへ、コンサートへ、劇場へ出かけていく。シューベルトは度々フォーグルから招待を受ける。

ひとりでに新しい友人ができるかと思えば、古くからの友人がウィーンをあとにし、いなくなってしまう。

 

22歳・・・ゲーテの詩による、『羊飼いの嘆きの歌』を聴いてください


Schubert D 121 Schäfers Klagelied

 

大学で商法を教え、弁護士としてもウィーン市民に評判の高かったゾンライトナーは、友人や音楽家たちを招き、金曜日ごとに音楽の夕べを催していた。

シューベルトも招待され、今までより注目されるようになった。

 

ゾンライトナーが出版社探しをはじめ、ディァベリ社を説得することに成功し、友人たちが費用の40%をもって、シューベルトの作品が、初めて出版されることになる。

 

23歳・・・バリトン歌手フォーグルとともに北部オーストリアを旅行

『鱒』(ます)として有名な、ピアノ五重奏曲長調


*♪シューベルト: ピアノ五重奏曲 イ長調 「ます」 Op. 114, D. 667 / アンドラーシュ・シフ(ピアノ)、ハーゲン弦楽四重奏団 1983年12月

 

この時期の彼の曲は、受け入れられなかったり、検閲で禁止されたり、上演が中止になったり・・・屈辱感と、失望感の中にいた。

 

彼は、マイアーホーファーの元を離れ、近くで一人暮らしを始めた。

彼は市内で知られ、評論の中で名を挙げられ招待を受けるようになった。

最初の歌曲がいくつか委託出版された。

歌芝居『双子の兄弟』が宮廷オペラ座で上演された。


♪シューベルト:歌劇「双子の兄弟」 D.647 - 序曲 / クリスティアン・ベンダ指揮プラハ・シンフォニア管弦楽団 2006年11月

 

1820年11月21日・・・彼の最初の歌手で、初恋の女性テレーゼは、パン屋の親方ヨーハン・ベルクマンに嫁いだ。「顔にあばたがあり、必ずしも美人とはいえないが、善良な、心から善良な」テレーゼが

 

シューベルトの思いは複雑だったことでしょう。

テレーゼは、シューベルトを待とうと思わなかったのでしょうか・・・

 

24歳・・・1821年4月26日の「ドレスデン夕刊新聞」の短信に、シューベルトのファンの熱狂ぶりを伝えている。

 

シューベルトがたびたび招待を受けるようになると、特に裕福な友人たちは、彼の身の回りまで気を配ってくれるようになった。

大家への支払いが何か月も滞ったり、背広の仕立て代がなかなか支払われなかったりと。彼はそれを忘れる、それを押しのける。

 

そんなシューベルトの無頓着さが、ほおっておけなかったのでしょうね。

 

書籍商のヨーゼフ・フーバーは、シューベルトよりゆうに頭ふたつも背が高かったため、彼はこの男と並んで散歩することを避けていたが、このフーバーが最近、画家のレーオポルト・フォン・ぺルヴィーザーとともに彼の強力な後援者の一人になり、しばらくすると部屋まで貸してくれた。皆を盟友の様に堅く結びつけた集い、シューベルティアーデの始まりを、ある手紙で語っている。

 

シューベルティアシューベルトを囲む、音楽を奏でる夕べの集いで、何よりもまず彼と彼の音楽に関するものであるが、うきうきした彼らは、さらに深夜あるいは朝まで上機嫌で、お祭り気分が冷めやらない。楽しみのあとにはひどい二日酔いが待っていることも稀ではない。

 

シューベルトは、彼を援助してくれるショーバーと旅をし、夏から秋を過ごす。

このときにも、アッツェン・ブルックドイツ舞曲が生まれている。

ウィーンに着くと、ショーバーが母と妹ゾフィーと一緒に住まないかと誘った。

 

シューベルティアーデは、相変わらず仲間たちによって催されていた。

 

ある日曜のこと、シューベルトは、カロリーネ・エスターハージを見かけた。

彼女はもう子どもではないが、それでもやはり子どもで、その子を彼は忘れることができず、ずっと愛していた。

まるで彼の思いが偶然、通じたかのように、エスターハージ伯爵がコンサートをするからと、彼を招待してきた。

エスターハージの館で、カロリーネに挨拶をしたとき、彼女は彼にほとんど気づいていないように思えた。それどころか拍手もそこそこに、彼が知らない、また知りたくもない若い男ときゃっきゃ笑っている

 

切ないですね・・・

 

一緒に街の女のところへ行こう、シューベルト

ショーバーはドナウ河畔の娼婦街の女に夢中になっていたのかもしれない。

あの女たちは優しいんだ。なんでもかなえてくれる、どんなばかばかしい願いだってね。 さあ、行こう。

 

シューベルトは、ある日誘惑に負けてしまう。

 

さあ、次回が最後になります。

 

シューベルトはどうなるのでしょうか?

 

どんな曲が生み出されるのでしょうか?

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この本と、Wikipediaを参考・引用しながら、youtubeの音楽の力を借りて、私の思いもちりばめました。

今回も、読んでいただいて、ありがとうございます、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№2

 

前回の記事

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今回はシューベルトの 恋のお話 も交えて描きます

その前に曲を聴いてみてください。

心の準備・・・なんて・・・


- AVE MARIA DI SCHUBERT - MARIA CALLAS -

いかがでしたか?

それでは16歳からの足跡を辿ってみましょう。

 

16歳・・・コンヴィクトを去るが、週2回はコンヴィクトに通いサリエーリ先生に学ぶことを許される。

相変わらず作曲に励み、度々友人たちや家族に披露した

     教員養成所に通う

 

「ミサ曲を作ってもらえないか」と、毎日曜日に通うリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルファーから依頼を受けた。

 

シューベルトには、そのミサ曲がどんな響きになりそうか、もうわかっていた。彼はある声、一番大事な声を知り、その声が隣の娘、テレーゼ・グローブ聖歌隊の稽古で歌う声を聴いていたからである。

 

そうテレーゼを、そしてその声を誰よりも好きになったのでしょう。

彼女の話す声を聴き、彼が曲を作り、それを彼女が歌う。

 

喜ばしいものにせよ悲しいものにせよ、結末のある恋物語でもない。

なぜならこれには終わりがなく、だらだらと長引き、次第に消えていったのだから。

 

彼は17歳、彼女はひとつ下だった。

 

彼は2年間、自分の意に沿わない教職に就いた。父の監督する学校で助教師をしていたが、彼は教えることにあまり熱心ではなく、詩作(作曲)に熱心に取り組んだ。

 

詩人ヨハン・マイアーホーファーと出会う

 

この期間におよそ250曲もの歌曲が生まれている。

さらに4つのシンフォニー、民衆歌劇、カンタータ、オラトリオ、ミサ曲、ほかたくさんの曲を作っている。

彼は詩が手に入ると、たいていすぐに歌曲を作った。

『野ばら』は、1815年8月15日に、「同盟の歌』『宝を掘る男』『鼠捕り』『月に寄す』と共に生まれている。


『野ばら』 Heidenröslein D257 Franz Schubert

 

シューベルトは、仲間たちの詩に、文芸年鑑の中で見つけた文章に曲を付けた。

 

彼は新たに音楽教師の職に応募したが、受け入れられなかった。

テレーゼはこの知らせを、シューベルトの継母アンナから聞いた。

彼女は彼を慰めることができない。

 

1816年6月から書き始めた日記、書くことで自分の気持ちをテレーゼから離すことが、彼はまだできない。自分の存在のよりよい、おそらく最善の可能性として彼女を愛しているのに、彼女を、同時に自分自身をももう諦めている。

 

「真の友人を見つけた者は幸せである。しかしもっと幸せなのは、妻の中に真の友人を見つけた者である」と彼は日記に書き入れる。

 

また、「こんな時代に、自由な男にとって結婚という考えは耐え難いものだから、彼は結婚しないで憂鬱な気分に陥ったり粗野な欲望に耽ったりする」と・・・

 

今の時代の若者の心と、同じように彼も向き合ったのです。

 

19歳・・友人ショーパーとシュパウンの強い勧めもあり、助教師の仕事を兄に託し、学校と家から離れ、友人シュパウンと暮らすことになった。

  

彼はこの時期に、シュパウンの法学の恩師より、初めて作曲で報酬を得ている。

 

音楽で食べて行くのは本当に大変だったのですね。

 

この頃作られたふたつの交響曲を聴いてください


シューベルト: 交響曲 第4番 ハ短調 D417「悲劇的」 カラヤン / ベルリン・フィル 1978


♪シューベルト:交響曲第5番変ロ長調 D.485 / サー・コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン 1994年

 

晩秋になって彼は、ショーパーと母親の住む冬の館に引っ越した。

 

友達の家を転々とできる人って、幸せなのか、そうじゃないのか、よくわからないな。

楽しそうでもあり、気を使いそうでもあり・・・

 

1818年1月、シューベルトは家族と共に引越し、再び大家族の一員となった。

この時の転入簿に、シューベルトの身長が書き込まれている。

身長157㎝以下の男子は徴集されなかった。当局のために書かれたものだ。

 

彼は友人たちと居酒屋にいるのが好きだった。彼は飲める以上に飲んでしまうのだった。

友人たちや讃美者たちの輪が広がり、彼の評判が高まっていった。

作品が写譜され、ウイーンの家庭音楽会で演奏され歌われるようになった。

彼の一風変わった「直感的な作曲」法の噂が広まった。

 

21歳・・・1818年2月、初めて私的なコンサートが催された。

 

シュパウンのつてで、エスターハージ伯爵家のふたりの娘に、夏の間音楽を教えることになった。姉のマリーアは16歳、妹のカロリーネは13歳。ふたりはピアノがうまいだけでなく、ソプラノの声部を素晴らしく歌い、彼女たちの母もアルトをうまくこなせた。

 

この後、シューベルトにまた新たな恋心が芽生えます。

続きはまた今度・・・(*^-^*)💛

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№1

 

先日、図書館にDVDの返却に行きました。

わざわざ出かけていかなくても、ネットで見ればいいのに・・・

なんて声も聞こえてきそうですが、

図書館とか本屋さんに行くと、思いもかけない出会いがあったりするものです。

今回も、こんな本との出会いがありました。 

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今回はなんて、実は2週間も前の話なんですが・・・

 

一度は読み終えたのですが、もう2週間延長して、文体にも慣れたこともあり、2度目はさらにかみしめながら読み進めてます。

 

☆ この授業を受けなければ、読むはずもなかったかもしれません。

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有名音楽家であるシューベルト、こんなにも短い人生のうちに、たくさんの名曲を残しています。

 

そんな彼も悩み苦しみました。

時代は違っても、いつの世も悩みは尽きず・・・

 

とりわけ父親との葛藤が胸を打ちます。

父親と息子との意見の違い、誰のための人生なのか!

もちろん自分の人生。

だから背いてしまう・・・

シューベルトもそんな生涯を送りました。

 

そして、どうやらゲーテもそのようですが・・・

ゲーテについては、

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia

 

 

 フランツ・ペーター・シューベルト

1797年1月31日~1828年11月19日

オーストリアの作曲家

 31歳で亡くなっています。

まだまだこれからという年齢ですよね。

 

   cFranz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875.jpg

 『歌曲の王 と言われるほど、素晴らしい歌曲、とりわけドイツ歌曲をたくさん残しました。

 

シューベルトを知るほどに、惹きこまれてしまいます。

 

身長155㎝、小柄で丸顔、そして眼鏡

なんだかかわいい!

 

お父さんは教師、息子フランツも教職に就いてもらいたかったようです。

父は妻や子供たちの心の幸せよりも、自分自身のことが、自分に寄せられる声望、昇進のことが気になった。 愛情を惜しんだ彼は、愛情を受けることも少なかった。

 

父は、より良い教職の仕事を求めて転職を繰り返しますが、それは家族のためでもあったように、私には思えるのですが・・・

 

フランツは、5歳から父による教育を受け初め、6歳からヴァイオリンとピアノを学び、リヒテンタール教会の聖歌隊に入り、7歳には神童ぶりを発揮していた。

 

父はアマチュア楽家で、チェロを、2人の兄フェルディナントとイグナーツはヴァイオリン、フランツがヴィオラを担当して弦楽四重奏を演奏した。

この演奏会は、定期的に行われていたようだ。

 

 10歳・・・宮廷合唱団の少年合唱団員となる。    

    コンヴィクト(寄宿制神学校)に入る。

    オーケストラにはいり、9歳年上の友人シュパウンと共にヴァイオリンを弾く

11歳・・・作曲を始める

 

当時作られた曲を探してみましたが、なかなか見つかりませんでした。

 

何か1曲聴いてみたくて、晩年のピアノ曲をお届けします。

 

幻想曲 へ短調 4手ピアノのためのファンタジア Ð940


Schubert - Fantasia in F minor (Kissin, Levine)

1828年 作曲   気分転換にいかがでしたか?  

    

14歳・・・彼は五線紙を買うことができないほど困窮していた。友人たちが、そっと五線紙の束を用意したり、劇場に連れて行ってくれたりした。                              

    

たまに家に帰ると父は彼が作曲を続けることを快く思わず、というより教職を目指すように、思い通りにならない息子に激昂し手を挙げた。

    幼い時からそうだったように、彼は怯えるのだった。

 

15歳・・・家からはもう援助というより、自尊心を傷つけられるお金しかもらっていなかった。

変声期をむかえたシューベルトを含む4人の合唱団員の少年たちは、給費生としてコンヴィㇰトにとどまることを許された。

シューベルトは、数学がダメだった。それに宗教への懐疑も顔を出してきていた。      

 

ますます作曲に没頭

空腹と孤独を紛らすのに、音楽はなくてはならなかった。

 

宮廷学長サリエーリより対位法を学び、彼に励まされ作曲を続けた。

  

 サリエリは、モーツァルトにとってはいい人とはいえなかったけれども、シューベルトにとっては誰よりも熱心に指導してくれた素晴らしい恩師のようです。

 兄フェルディナントが立ち寄り、母さんの具合がよくないと伝えてくれた。

 母、エリーザベトは、寝たきりになり、1812年5月28日に亡くなった。

 

16歳・・・1813年4月、父が20歳年下のアンナと結婚し、シューベルトは一目で気に入った。アンナもシューベルトを気に入ってくれた。

 

作曲のためにピアノは気が散るからと使わなかった。

彼は、詩作すると言っていたようです。

おどけるのも得意で、仲間を喜ばせ愛された。

 

信頼する良き仲間がいたからこそ、また年齢の違う友人と付き合えたことでも、

よきものを得られたのかもしれません。

 

 次回は、シューベルト16歳からの続きを、恋のお話なども交えて描いてみます。

 

  

 

シリカ(珪素)ナノコロイド水・・・ 霧島『長寿の里』

まさか水を買う時代が来るなんて・・・

昔はそんなこと考えられなかったのではないでしょうか?

けれども今はそれが普通になっているようです。

実際どれだけの人が、水を買っているのでしょうか?

少なくとも我が家は5年ぐらい前から、定期的に購入しています。

どちらかというと夫の方が、よく飲んでいます。

 

私にとって思い出深い霧島山、朝に夕に眺めたものです。

私は、宮崎生まれですが、霧島山がよく見えるところに住んでいました。

下の写真ほど近くではありませんが・・・

「霧島山 画像」の画像検索結果

そんな懐かしい霧島のお水を飲んでいます。

 

神話の地「鹿児島県 霧島」。手つかずの自然が今も残され、霧島国立公園として守られた敷地内の地下144メートルより然-しかり- 霧島火山岩深層水は採取されています。

 

霧島の岩盤でゆっくりと濾過されることでシリカマグネシウムなどがバランスよく含まれています。「中硬水」は、軟水の飲みやすさ、硬水のミネラルバランス両方の長所を兼ね備えた水です。然-しかり- 霧島火山岩深層水は、硬度の高いヨーロッパ地方の水に含まれるダイエットサポート成分「サルフェート」や海外・日本の美容雑誌等でも話題の美容成分「シリカ」も多く含まれています。

さらに、然 霧島火山岩深層水の特徴である「中硬水」は、優れた抽出力を持っており、お茶やコーヒーから旨味や香りを引き出します。。

然-しかり- 霧島火山岩深層水は、霧島の自然が育んだ豊富なミネラルが溶けだした、日本では珍しい「中硬水」。
硬水にはない飲みやすさ、軟水にはないミネラル量とバランスに優れており、まろやかな飲み心地で身体のすみずみまで巡ります。

然 霧島火山岩深層水に含まれる成分には、身体のリズムを整えたり、コラーゲンの働きをサポートするなど、さまざまな働きを持つ成分が含まれています。
        〈長寿の里 Webサイトより〉

 
 それから、さらに生命知水』 シリカナノコロイド水
なる水を飲んでみたくなりました。
 
こんな感じで届きました。    

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この水を飲んでいる方々の体験談を読むと、だいたい3ヶ月ぐらいたってから、
なんとなく体が軽くなった。とか、いつの間にか元気になって、活動的になっているようです。
我が家では、2ℓの『然』はお茶やコーヒーを煎れるときに使います。
 
コンパクトな 300mlの 『生命知水』は時々の水分補給に飲んでいます。
 
便秘がちな人は、とくに継続して飲んでみるといいかもしれません。

原宿:竹下通り~ブラームスの小径へ

 

久しぶりの原宿

ミュシャ展の帰りに行きました。

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 原宿駅から竹下通りに入ってすぐ左手に 『DAISO』 があります。

そのすぐ脇を入ると、奥に 『ギャラリーハセガワ』が、ひっそりと佇んでいます。 友人はここで来年個展を開く予定です。

 

こんなところにギャラリーが・・・知る人ぞ知る、なのかもしれません。

www.hasegawa-jp.com

ここに作品が並びます。

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通りの賑やかさが嘘のように静かです。

 

通りに戻り、もう少し行くと、右手にこんな狭い路地が・・・そこをを抜けると・・・

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竹下通りとほぼ平行に走るブラームスの小径』

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素敵ですね。次はこの小径をゆっくり散歩したいと思いました。

ランチはこの茶色のレンガの建物のすぐ隣の2階で食べました。

隣じゃなくて、つながってたのかも・・・(´・ω・)

www.bluegarden.jp

 

とってもおしゃれでリーズナブルでしたよ(*^-^*)

 

その日は、たくさん歩いた一日でした☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュシャ・・・国立新美術館にて

1月のある日、ラジオからミュシャ、スラヴ叙事詩チェコから・・・世界初・・・

という単語が聞こえてきた。

誰だか知らないけど、どうやら日本のどこかで、いつからかわからないけど、なんだかとても、見たい、見に行きたい展覧会がある・・・と思ったものの、つい忘れてしまっていた。

 

月曜の朝、日本画を描いている友人から、突然興奮した感じで電話がかかってきた。

 

「今日、一日空いてる?」そう言われて何か大事なことがあるようなので、「とくになにもないです。何かあるのですか?]ときいてみた。

ミュシャよ、ミュシャ!! 今日までなの!」

「ああ、今日までなんですね・・・知らなかった」

「違うの!ミュシャ展は、6月5日までだけど、私の持ってる招待券2枚あるんだけど、今日までなのよ。行かない?」

「あ、行きたい! 場所は、最寄り駅はどこでしたっけ?」

国立新美術館で、地下鉄乃木坂駅に直結しているの」

地下鉄、苦手だな~ 行き方がいっぱいあって、迷いそう・・・

そんなことを思ってしまったから案の定迷いましたとも(>_<)

 

チケット売り場に行列ができてる。やっぱりかなり人気がありそう・・・

私はその横を通って中に入った。

 

待ち合わせの2階にかなり遅れて到着・・・本当にすみませんでした*1

 


ミュシャ展PR

 

本当に大きい・・・私が絵を見ているのではなく、絵が私を見つめている。

何かを言いたげでもあり、言葉を失ってしまったようにも見える。

哀しみや虚しさを通り越したような乾いた心がそこにあるのだろうか・・・

 

現実の人々と幻影と、彼の脳裏には見えているのだろうか・・・

色合いが柔らかくて、戦いの本当の悲惨さは、どこかに消し去っているようにも感じる。白い衣がひときわ目を引く。

聖書、宗教改革、聖職者、兵士、女、子供、老人、その他の大勢の人々

抑圧と解放、戦争と平和、希望・・・

 

スラヴ叙事詩のあとに、パリで活躍していたころのポスターなどが並ぶ

あまりにも違う作風で、本当に同じ人が描いたのだろうかと疑ってしまう。

美しい女性と美しい花々・・・この絵は前にどこかで見た気がする。

 

こんな機会はめったにありません。あなたも、体感してみては・・・

 

アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・ミュシャ - Wikipedia

 

 略歴     

出来事
1860年

7月24日、チェコ東部モラビア地方南部の寒村イヴァンチツェに生まれる。

1871年

聖ペテロ教会の聖歌隊員となり、その奨学金でブルノの中学に通う。

1873年

雑誌「モテツト」の表紙を描く。

1874年

声変わりにより聖歌隊を退団。そのため奨学金も打ち切られ中学を除籍となる。イヴァンチツェに戻り、父の手引きで裁判所の書記の仕事につく。

1879年

プラハ芸術アカデミーの入試に落ち、舞台装置や緞帳を作っているカウツキー・ブリオシ・ブルクハルト工房の求職に応じウィーンに移る。

1882年

リング劇場の焼失で職を失い、ウィーンを去りミクロフ(チェコ)に移る。

1883年

クーエン・ベラン伯爵と出会い、フレスコ画制作の依頼を受ける。以降、伯爵と弟のエゴン伯爵の援助を受けるようになる。

1884年

クーエン伯爵の援助を受けて、ミュンヘンの美術アカデミーに入学。

1888年

パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。

1889年

アカデミー・コラロシュに学ぶが、クーエン伯爵の自殺により援助を打ち切られる。

1891年

ゴーギャンやストリンドペリと出会う。

雑誌の挿絵を描く。

1892年

セニボス著「ドイツの歴史」の挿絵を担当。

1894年

偶然の出会いにより、サラ・ベルナール主演の恋愛劇「ジスモンダ」のポスターを制作。大変な好評を博し、一躍時代の寵児となる。

1895年

サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。

1896年

サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレックらと共に出品。

1897年

サロン・デ・サンにて個展。

ラ・ブルユム誌ミュシャを特集。

1900年

パリ万国博覧会が開催、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。

1901年

レジオン・ドヌール勲章を受章。

装飾資料集を刊行。

1904年

アメリカに招かれる。ニューヨーク、シカゴ、ボストンを訪れる。

1906年

プラハにてマリア・シティロヴァと婚礼を挙げ、アメリカに渡る。

1909年

長女ヤロスラヴァ誕生。

1910年

祖国に戻りプラハに居を構える。

スラヴ民族の歴史を綴った連作「スラブ叙事詩」の制作を開始。

1915年

長男イージー誕生。

1918年

新貨幣や切手のデザインを担当。

1928年

「スラブ叙事詩」が完成し、プラハ市に寄贈する。

1931年

聖ヴィタ大聖堂(プラハ)のステンド・グラス制作。

1936年

パリの印象派美術館でミュシャ展開催。

1939年   

7月14日、プラハにて逝去。享年79歳(亡くなる4か月前、ゲシュタボにより「危険な愛国主義者」として逮捕投獄される。帰宅後、健康を損なう) 加筆:ID:vmari

            

 

 クリアファイルを買いました

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*1:+_+

思いは現実になる・・・(*^-^*)v

私は子供の頃、かなりマイナス思考だった。

もちろんマイナス思考という言葉は、ある程度大人になってから知った言葉だ。

 

『コンパス』を初めて見たとき、これで何をするのか? 注射みたいなものなのか?触ったらケガしそう・・・そう思っていじっていたら、指先をちょっと刺して出血してしまった。

それがのちにきれいな円を描く道具だと知って、いっぱい円を描いて遊んだ。

あの針のあとは好きになれないけど・・・

 

それに食べることにまつわるマイナス思考がいっぱいで、きっと私はこれをこぼしてしまうだろうとか、気持ちが悪くなるに違いないなどと思うと、そうなるのが常だった。

.

 私が小学校の高学年になると、ますます物事を悪く考えるようになっていた。

友達の家に遊びに行ったとき、少し曇ってくると、私はこれから大雨の中、ものすごい雷の中を帰るんだ。きっと、きっとそうだ!と思った。

するとやっぱりそうなった。

 

また、こんなこともあった。授業でわからない問題があるとき、決まって、きっとこの問題で私は当てられる・・・そして答えられない・・・なぜ前もってそんなところをみつけるのか、そんな先まで見なければ思わないだろうに・・・

そんなことが何度かあった。そして予想通りそうなった。

 

それから泳げない私は、水泳大会に出て、泳げないから当然ビリになり、とても恥ずかしい思いをする。などとどうしようもないことを考えてしまい、本当にその通りになってしまった。断ることも休むこともできたはずなのに・・・

 

そんな私がプラス思考になったのは、22歳で東京にでてきてからだ。

上京する前に、幼馴染が「易占いの相談に行くから一緒に行って」と誘いに来た。 私もせっかくだからと、「これから東京の友達のところに行くけれど、どうなんでしょうか?」と漠然と聞いてみた。

そうしたら「方角がとてもいい」ということと、「修業をしている人もいるが、あなたも静岡で修業をしてはどうですか」とも薦めてくれた。私は考えてもみなかったし、そんな難しそうなこと無理かなとも思い、少しだけ笑ってその場を離れた。

 

話がちょっとそれてしまったような気もするが、上京してすべてが変わった。

物事がスムーズに進んでいき、仕事も今までやったことのない職業に就き、人間関係にも恵まれた。

 

仕事を探す時も部屋を探す時も、ある程度自分なりのいいイメージが浮かんで、悪いことは一つも浮かばなかった。

 

仕事に慣れて、何か歌でも歌いたいな~と思った矢先に、新宿駅で声をかけられて、アマチュア合唱団にも入った。

 

そして新居を探す時、不動産屋さんがすすめてくれた2部屋の鍵を渡され、自分で見に行った。そのうちの一部屋が前からこんなところに住みたいなと思っていた部屋その部屋だったので、びっくり! 当然その部屋を選んだ。

 

私は子供の頃、自分の名字があまり好きではなかった。お寺みたいだと言った人もいた。なのでもっとどこにでもある簡単な名字になりたいと思っていた。このことはすっかり忘れていたので、結婚してしばらく経ってからふと思い出して感動してしまった。

その通りになっていたのだから。

 

その後も、夫の転勤で新しい仕事を探す時、朝10時ぐらいから5時ぐらいまでで、音楽に囲まれて仕事をしたいな~時給はいくらぐらいでとか、具体的に考えて、そして引越しの忙しさで忘れていた、ところがダメもとで受けた会社が希望通りの職場だった。

 

そしてまた転職の機会が訪れた。その時は、ドラマ『山おんな壁おんな』で着ている制服が着たいと思った。そうこうしているうちにその制服によく似た制服を着て仕事ができるようになっていた。しかもしばらくしてから、さらに好きなデザインの制服に代わり、

強く思うことは、いつのまにか現実になるのだと確信した。

 

誰にも迷惑をかけず、大きすぎない強い思いだからなのか、いつの間にか忘れてしまっているからなのかはわからないけれど、現実になると本当にうれしいものです☆