シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№1
先日、図書館にDVDの返却に行きました。
わざわざ出かけていかなくても、ネットで見ればいいのに・・・
なんて声も聞こえてきそうですが、
図書館とか本屋さんに行くと、思いもかけない出会いがあったりするものです。
今回も、こんな本との出会いがありました。
。
今回はなんて、実は2週間も前の話なんですが・・・
一度は読み終えたのですが、もう2週間延長して、文体にも慣れたこともあり、2度目はさらにかみしめながら読み進めてます。
☆ この授業を受けなければ、読むはずもなかったかもしれません。
有名音楽家であるシューベルト、こんなにも短い人生のうちに、たくさんの名曲を残しています。
そんな彼も悩み苦しみました。
時代は違っても、いつの世も悩みは尽きず・・・
とりわけ父親との葛藤が胸を打ちます。
父親と息子との意見の違い、誰のための人生なのか!
もちろん自分の人生。
だから背いてしまう・・・
シューベルトもそんな生涯を送りました。
そして、どうやらゲーテもそのようですが・・・
ゲーテについては、↓
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia
フランツ・ペーター・シューベルト
1797年1月31日~1828年11月19日
オーストリアの作曲家
31歳で亡くなっています。
まだまだこれからという年齢ですよね。
『歌曲の王』 と言われるほど、素晴らしい歌曲、とりわけドイツ歌曲をたくさん残しました。
シューベルトを知るほどに、惹きこまれてしまいます。
身長155㎝、小柄で丸顔、そして眼鏡
なんだかかわいい!
お父さんは教師、息子フランツも教職に就いてもらいたかったようです。
父は妻や子供たちの心の幸せよりも、自分自身のことが、自分に寄せられる声望、昇進のことが気になった。 愛情を惜しんだ彼は、愛情を受けることも少なかった。
父は、より良い教職の仕事を求めて転職を繰り返しますが、それは家族のためでもあったように、私には思えるのですが・・・
フランツは、5歳から父による教育を受け初め、6歳からヴァイオリンとピアノを学び、リヒテンタール教会の聖歌隊に入り、7歳には神童ぶりを発揮していた。
父はアマチュア音楽家で、チェロを、2人の兄フェルディナントとイグナーツはヴァイオリン、フランツがヴィオラを担当して弦楽四重奏を演奏した。
この演奏会は、定期的に行われていたようだ。
10歳・・・宮廷合唱団の少年合唱団員となる。
コンヴィクト(寄宿制神学校)に入る。
オーケストラにはいり、9歳年上の友人シュパウンと共にヴァイオリンを弾く
11歳・・・作曲を始める
当時作られた曲を探してみましたが、なかなか見つかりませんでした。
何か1曲聴いてみたくて、晩年のピアノ曲をお届けします。
幻想曲 へ短調 4手ピアノのためのファンタジア Ð940
Schubert - Fantasia in F minor (Kissin, Levine)
1828年 作曲 気分転換にいかがでしたか?
14歳・・・彼は五線紙を買うことができないほど困窮していた。友人たちが、そっと五線紙の束を用意したり、劇場に連れて行ってくれたりした。
たまに家に帰ると父は彼が作曲を続けることを快く思わず、というより教職を目指すように、思い通りにならない息子に激昂し手を挙げた。
幼い時からそうだったように、彼は怯えるのだった。
15歳・・・家からはもう援助というより、自尊心を傷つけられるお金しかもらっていなかった。
変声期をむかえたシューベルトを含む4人の合唱団員の少年たちは、給費生としてコンヴィㇰトにとどまることを許された。
シューベルトは、数学がダメだった。それに宗教への懐疑も顔を出してきていた。
ますます作曲に没頭
空腹と孤独を紛らすのに、音楽はなくてはならなかった。
宮廷学長サリエーリより対位法を学び、彼に励まされ作曲を続けた。
サリエリは、モーツァルトにとってはいい人とはいえなかったけれども、シューベルトにとっては誰よりも熱心に指導してくれた素晴らしい恩師のようです。
兄フェルディナントが立ち寄り、母さんの具合がよくないと伝えてくれた。
母、エリーザベトは、寝たきりになり、1812年5月28日に亡くなった。
16歳・・・1813年4月、父が20歳年下のアンナと結婚し、シューベルトは一目で気に入った。アンナもシューベルトを気に入ってくれた。
作曲のためにピアノは気が散るからと使わなかった。
彼は、詩作すると言っていたようです。
おどけるのも得意で、仲間を喜ばせ愛された。
信頼する良き仲間がいたからこそ、また年齢の違う友人と付き合えたことでも、
よきものを得られたのかもしれません。
次回は、シューベルト16歳からの続きを、恋のお話なども交えて描いてみます。