霊仙・・・日本人ただ一人の三蔵法師

おそらく20年以上前、私は空海の映画を観て、「もっと知りたい!」という欲望に駆られてしまった。

密教についての本を買い、当然最初に空海のところを読んだ。
生い立ちや数々の出会い、よく知られる功績、初めて知る話でいっぱいだった。

さらにベージを進めるうちに、聞き慣れない名前の僧が目に留まり、なぜか力がわいてきて、読むうちに今度は悲しみが込み上げてきた。

この様な方が、日本に生まれ育ち修行を積み、空海最澄らと共に遣唐使として唐に渡られていたことをその時初めて知った。
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霊仙は、平安時代前期759年に滋賀県の霊仙山麓(現在の米原市)に生まれた。
豪族の息長真人氏の一門に属する父刀禰麿が、山頂の霊山寺大日如来に祈願して得られた長男なので、日来禰と名付けられた。

幼い頃からその寺に預けられ、773年奈良・興福寺に入門
3年後に正式の僧となった。

さらに修行・修学を積み、804年に遣唐使として空海最澄等と共に入唐した。

霊仙の目的は、仏教経典の精神を正しく伝える翻訳を可能にするためのサンスクリット語学や漢文の修得だった。
当事世界最大の国際都市であった長安に腰を据えて勉学に励んだ。

霊仙にとって幸運だったのは、彼の修行場所として割り当てられた醴泉寺に、カシミールの高僧般若三蔵が止宿していたことだった。

インド仏教の真髄を伝えるこの名僧から直接梵語サンスクリット語)を学ぶことができたのである。

教学に語学に研鑽を積むこと6年、唐の元和5(810)年、霊仙の運命を変える事件が起こる。
現在のスリランカから献上されていた古い梵夾が発見されたのである。

梵夾とは、木の葉を長さ30~60cm、幅3cmの短冊形に切り揃え、小刀の彫りあとに墨を入れたサンスクリット語の経典のこと。
当時から150年以上も前に伝わっていたその経典は「大乗本生心地観経」といい、僧の倫理を説く重要なものだった。

ときの憲宗皇帝は、国家事業としてそれを翻訳することとし、名僧・高僧を集めて訳経のチームを編成させた。

般若三蔵を主任とするその8人の中に、日本人留学僧霊仙が選ばれたのである。
しかもその役割は、般若三蔵が読み上げるサンスクリット文を、そのまま漢字に音訳し、さらに中国語に翻訳していくという、訳業の中心となる最も難しい仕事であった。

本来なら般若三蔵が果たすべき役割だが、彼は在唐30年にもなるのに、漢語をいっさい学ばないという姿勢を貫き通していた。

訳業の途中で般若三蔵が祖国カシミールへ唐の使節として派遣されたので、その後半は霊仙が実際上の責任者となって翻訳事業を完成させた。

「そなたに三蔵の号を与えよう」
翻訳が無事終了したとき霊仙は皇帝から〈三蔵〉の称号を賜った。

ここに日本人ただひとりの三蔵法師が誕生した。

そればかりか彼の天才的な学識を深く愛した皇帝は、皇帝の祈祷僧として任命した。正式には「内供奉十禅師」という。

皇帝の祈祷僧の最大の任務は、護国修法にある。国家の鎮護を、皇帝の息災を祈り、異変に際しては怨敵退散の降伏祈祷を修しもする。
宮中内で執り行われるこういった密教秘法は、言ってみれば国家の最高機密だ。
そうした秘密の修法に日夜触れることになったのである。

そんな中彼は、それまで聞いたこともない程優れた効験をもつ密教大秘法に出会うのである。

大元帥法」がそれだ。

仙三蔵はこの「大元帥法」を日本に持ち帰ろうと決意した。
そのために大元帥明王の尊像や修法に必要な法具などを整え、皇帝に帰国を願い出た。
が、皇帝は答えたのだ。

「そなたは宮中から持ち出してはならぬ国禁の秘法をすでにその身に修しているではないか。いかに余がそなたを愛しんでいようと、皇帝として国の法を曲げるわけにはいかぬ」

皇帝が、異国人・霊仙三蔵を周囲の反対を押さえて内供奉僧に任命したのである。
皇帝を恨むわけにはいかなかった。

820年、霊仙三蔵に転機の日が訪れた。
宮廷の内紛によって、皇帝が暗殺されたのである。

新しく朝廷の勢力を握った反仏教派に、追われる身となった彼は、仏教の聖地・五台山へと逃れていった。

その後7年、さらに修行を積んで、帰国の機会を狙う。
その望郷の念、「大元帥法」を日本に伝えたいという思いの深さは、凄まじいものであった。

そんな彼の一念もついに天に届かず、827年毒薬をこうむり、異国の土と帰してしまう。
仙三蔵68歳のときである。

その後838年に遣唐使船で訪れた常暁により、大元帥法は日本に持ち帰られた。


常暁は秋篠寺で修行中、井戸に大元帥明王の姿を観て、入唐を決意するのだが、それは霊仙三蔵の一念が顕現させたものだと伝えられる。

秋篠寺について
とてもわかりやすく読みやすく丁寧に書かれたブログをみつけました。
http://small-life.com/archives/10/06/0618.php


参考・引用した本は


大元帥明王の画像
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宮中では国家鎮護のため古くから大元帥明王の秘法(大元帥法)が盛んに厳修されてきた。この大元帥明王は勅許を得ざる修法、尊像の造顕奉置が禁じられた結果、奈良の秋篠寺に伝わる大元帥明王像(像高229.5cm、鎌倉時代 重要文化財)だけしか残存しない。
 日本へは常暁によって伝えられ、840年(承和7年)に法琳寺に安置された。大元帥明王像は秘仏のため、開扉(かいひ)は毎年5月5日の大元帥会式と大元帥結縁会の6月6日のみで、一般には6月6日のみ公開されるている。(仏像事典より)