シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№2
前回の記事
今回はシューベルトの 恋のお話 も交えて描きます♡
その前に曲を聴いてみてください。
心の準備・・・なんて・・・
- AVE MARIA DI SCHUBERT - MARIA CALLAS -
いかがでしたか?
それでは16歳からの足跡を辿ってみましょう。
16歳・・・コンヴィクトを去るが、週2回はコンヴィクトに通いサリエーリ先生に学ぶことを許される。
相変わらず作曲に励み、度々友人たちや家族に披露した
教員養成所に通う
「ミサ曲を作ってもらえないか」と、毎日曜日に通うリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルファーから依頼を受けた。
シューベルトには、そのミサ曲がどんな響きになりそうか、もうわかっていた。彼はある声、一番大事な声を知り、その声が隣の娘、テレーゼ・グローブが聖歌隊の稽古で歌う声を聴いていたからである。
そうテレーゼを、そしてその声を誰よりも好きになったのでしょう。
彼女の話す声を聴き、彼が曲を作り、それを彼女が歌う。
喜ばしいものにせよ悲しいものにせよ、結末のある恋物語でもない。
なぜならこれには終わりがなく、だらだらと長引き、次第に消えていったのだから。
彼は17歳、彼女はひとつ下だった。
彼は2年間、自分の意に沿わない教職に就いた。父の監督する学校で助教師をしていたが、彼は教えることにあまり熱心ではなく、詩作(作曲)に熱心に取り組んだ。
詩人ヨハン・マイアーホーファーと出会う
この期間におよそ250曲もの歌曲が生まれている。
さらに4つのシンフォニー、民衆歌劇、カンタータ、オラトリオ、ミサ曲、ほかたくさんの曲を作っている。
彼は詩が手に入ると、たいていすぐに歌曲を作った。
『野ばら』は、1815年8月15日に、「同盟の歌』『宝を掘る男』『鼠捕り』『月に寄す』と共に生まれている。
『野ばら』 Heidenröslein D257 Franz Schubert
シューベルトは、仲間たちの詩に、文芸年鑑の中で見つけた文章に曲を付けた。
彼は新たに音楽教師の職に応募したが、受け入れられなかった。
テレーゼはこの知らせを、シューベルトの継母アンナから聞いた。
彼女は彼を慰めることができない。
1816年6月から書き始めた日記、書くことで自分の気持ちをテレーゼから離すことが、彼はまだできない。自分の存在のよりよい、おそらく最善の可能性として彼女を愛しているのに、彼女を、同時に自分自身をももう諦めている。
「真の友人を見つけた者は幸せである。しかしもっと幸せなのは、妻の中に真の友人を見つけた者である」と彼は日記に書き入れる。
また、「こんな時代に、自由な男にとって結婚という考えは耐え難いものだから、彼は結婚しないで憂鬱な気分に陥ったり粗野な欲望に耽ったりする」と・・・
今の時代の若者の心と、同じように彼も向き合ったのです。
19歳・・友人ショーパーとシュパウンの強い勧めもあり、助教師の仕事を兄に託し、学校と家から離れ、友人シュパウンと暮らすことになった。
彼はこの時期に、シュパウンの法学の恩師より、初めて作曲で報酬を得ている。
音楽で食べて行くのは本当に大変だったのですね。
この頃作られたふたつの交響曲を聴いてください
シューベルト: 交響曲 第4番 ハ短調 D417「悲劇的」 カラヤン / ベルリン・フィル 1978
♪シューベルト:交響曲第5番変ロ長調 D.485 / サー・コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン 1994年
晩秋になって彼は、ショーパーと母親の住む冬の館に引っ越した。
友達の家を転々とできる人って、幸せなのか、そうじゃないのか、よくわからないな。
楽しそうでもあり、気を使いそうでもあり・・・
1818年1月、シューベルトは家族と共に引越し、再び大家族の一員となった。
この時の転入簿に、シューベルトの身長が書き込まれている。
身長157㎝以下の男子は徴集されなかった。当局のために書かれたものだ。
彼は友人たちと居酒屋にいるのが好きだった。彼は飲める以上に飲んでしまうのだった。
友人たちや讃美者たちの輪が広がり、彼の評判が高まっていった。
作品が写譜され、ウイーンの家庭音楽会で演奏され歌われるようになった。
彼の一風変わった「直感的な作曲」法の噂が広まった。
21歳・・・1818年2月、初めて私的なコンサートが催された。
シュパウンのつてで、エスターハージ伯爵家のふたりの娘に、夏の間音楽を教えることになった。姉のマリーアは16歳、妹のカロリーネは13歳。ふたりはピアノがうまいだけでなく、ソプラノの声部を素晴らしく歌い、彼女たちの母もアルトをうまくこなせた。
この後、シューベルトにまた新たな恋心が芽生えます。
続きはまた今度・・・(*^-^*)💛