シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・最終回
いよいよ最後になりました。
描き始めたら、最後まで描かないと、でも、なかなかすすまない・・・
この本も返さなくてはならないし・・・
シューベルトの生きた時代、それはナポレオンの時代でもありました。
戦いや統治、大衆の思い。
大きな変動の中にあっても、人々の生活は営まれる。
シューベルティアーデのような、音楽の夕べ。
街には歌があふれていた。
それはまわりに音楽があり、皆がよく知るゲーテやハイネ、ミュラー、シラーをはじめ、たくさんの人々によって、『詩』が書かれ、人々が集い、詩が朗読され歌う場所があり、語り合う仲間が自然に増えていった。
かつての日本の『歌声喫茶』であり
今も変わらず続けられている教会での聖歌や讃美歌が歌われるミサ。
似たようなものがあるのでしょうか?
シューベルトは、一緒に暮らした詩人で検閲官でもある、気難しいマイヤー・ホーファーの書いた詩を見ては、すぐに曲を作り始めるのだった。
それは、コンヴィクト(寄宿制神学校)時代からと同じように・・・
人気のバリトン歌手のフォーグルを紹介してくれ、シューベルトの歌曲が世に知られるきっかけをくれたのも、マイヤー・ホーファーだった。
マイヤーホーファーも、仕事に堅実であり、そうであるほどに検閲の仕事の矛盾に悩み、孤独の中にあった。
早速ですが、曲をお聴きください、かなり長いですが・・・
Franz Schubert , Songs for male chorus part 2, Robert Shaw
前回までの記事
25歳・・・シューベルトは、ショーバーの家で妹ゾフィーとその母と共に暮らしていた。ショーバーは、シュパウンの妹マリーと恋仲にあったが、彼が反教会的であり悪評高い道楽者であり、得体の知れない性格であるという理由から、シュパウン家に受け入れられなかった。彼女は姿を消した。何の説明もなく別れの言葉もなしに、彼は置き去りにされた。6年前に求婚し結婚するつもりだったのに。
シューベルトもショーバーも思う相手と結婚まで行けなかったのです。
その喪失感はどのようなものだったでしょう。
恋愛と結婚とは違う・・・今も昔もそんな風に思う人が多いのでしょうか。
ショーバーは、裕福で女性にももてたから屈辱感も大きかったかもしれません。
憂いを忘れるように、何かを求め、彷徨ったのでしょう。
ドナウ河畔に、あの手招きする女性たちのもとに、足を向かわせたのでしょう。
シューベルトは、病気にかかっているようです。
「太陽さえもここでは冷たく思える
花は萎み、命は老いた
それにみなのお喋りは空しく響く・・・
どこにいても私はよそ者」
「ピアノのうまいリーベンベルクは言った。
「この歌曲『さすらい人』の変奏曲をピアノのために書いてくださるなら、お礼を期待していただけますか、シューベルトさん」
そして彼は、作り上げた。『さすらい人幻想曲』
Evgeny Kissin - Schubert - Wander Fantasy in C major, D 760
この後、彼はショーバーの元を離れ、家族のもとへ・・・
挨拶の言葉を交わしたとき、父は、自分がもうどんなことにも驚かなくなっていることに、そして息子がやつれて、元気がないように見えることにも気が付いていた。
彼らはいつもと違って遠慮がちに、親切に彼の暮らしを整えてくれた。
1823年・・・ショーバーと妹ゾフィーやシューベルティアーデの仲間たちと新年のあいさつを交わし祝った。
26歳・・・シュパウン家が紹介してくれた医者アウグスト・フォン・シェファーにかかった。診察中、彼は痛みと羞恥心で息を凝らしていた。
当時猛烈な勢いで広がっていたフランス病、彼は梅毒にかかっていたのではないか?
彼は水銀療法を受けた。より正確に言うなら、毒物で治療されたのではないか・・・
足音を忍ばせて過ぎていった1823年
4月10日・・・彼は今までの出版社ディアベリ社に、契約を解消する旨を伝えている。
「なお最後にお願いしなければなりませんが、私の全作品の草稿を、版があるのもないのも、とにかくすべてお返しくださいますように。」
ほぼ同じころに作曲の依頼も辞退している。
シューベルティアーデも行われなくなった。
5月・・・ショーバーの妹ゾフィーが、恋人の測量技師と結婚した。
「私の健康状態は思わしくなく、まだ外出をすることはかないません」と、彼はある知人に宛てて手紙をしたためた。
秋になるとショーバーは煩わしくなり、シューベルトにフーバーのところにいくといいよとすすめ、逃げ出した。
クリスマスイブ・・・シューベルトは、のっぽのフーバーのもとに居候して2か月になっていた。
画家のシュヴィントが、ショーバーに宛てて手紙を書いた。「シューベルトはよくなってきた。発疹のために髪の毛を剃らねばならなかったのだが、もうすぐ鬘をつけないで歩くことができるようになるだろう」と
シューベルトは、机であるいは窓辺で作曲した。
当時、検閲が厳しく、彼のために書かれたオペラの台本に許可がもらえなかったばかりか、修正の要望もついて返された。また他の台本も禁止になったり、幾人かの伯爵に献呈した歌曲も、伯爵の同意文書が遅れるなどで、検閲にひっかかった。
27歳・・・彼の誕生日を数人の男女で祝った。
彼のそばには、ふたりめの先生ベルンハルト博士がいつもお供をしていた。
2月17日のウィーンの新聞に掲載
『美しき水車小屋の娘』いよいよ出版。ヴィルヘルム・ミュラーの詩による歌曲集。
フランツ・シューベルト作曲のピアノによる伴奏つきの声楽曲。
SCHUBERT: Die schone Mullerin/Fritz Wunderlich 美しき水車小屋の娘/F.ヴンダーリッヒ
シューベルトの場合、よくそうであるように悲しみ、虚脱と恍惚が短調ではなく長調で描かれる。冬に読むために、冬に歌うために。
**♪シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 「ロザムンデ」 Op. 29, No. 1, D. 804 / ウィーン弦楽四重奏団 1981~87年
彼の音楽は、まだまだ種切れどころではない。これは彼にもわかっている。しかしながら体調だけでなく、旧友たちがいないことも、彼を悲しませる。どうやらそこには、教養も品もない人たちが群がってくるようになったようだ。
やることなすこと災いばかり、と大袈裟に考えがちになる彼だが、反対に作曲ではすべてうまくいっていた。
5月25日・・・再びツェリスのエスターハージ伯爵の館へ
今回は使用人棟ではなく、城館の一室がもらえた。
ヨゼフィーネには、到着したその晩に偶然、出会ったが、彼女は今やそれくらいの距離をとるのがいいと自分ではかったかのように、投げキスをよこして、彼の当惑を愛らしく取り除いてくれた。
食卓では11歳になっていた小さな弟アルベルトとカロリーネの間が彼の席で、最初の何日かはくたくたになってしまった。
毎朝10時ごろから、アルベルトに教え、マリーアとカロリーネもそれに加わり、時には散歩を楽しんだり、伯爵家の人々や、歌い手のシェーンシュタインを交えて、演奏会が催された。
父からの手紙でサリエーリ先生の退職と、副楽長のアイベル先生が後継者になられたことを知った。
眠っていた懐かしい記憶が呼び覚まされる。仕事を譲る準備をしていたことは、先生を訪ねた折に聞いていたが、退職のことは初耳である。実際に聞かされてみると、思い出の中で明るく、響き渡っていた場所がぽっかり空になり、暗くなってしまった気がする、先生についての悪い噂はことごとくはねつけてきた。僕の恩師なんだ。サリエーリ先生から教えてもらったのはとうてい対位法だけじゃないんだ。ウィーンに帰ったらサリエーリ先生を訪ねてみよう、と考えた彼の脳裏に、先生が多少なりとも成績で助けてくれたのに、不首尾に終わってしまった就職活動がいつまでも消えない残響の様に浮かんでくる。
ツェリスを経つ前の晩彼は広間の遊戯用のテーブルの上に一冊の本を、エルンスト・シェルツェというさえない名前の、今まで知らなかった詩人の詩を見つけた。
この詩に呼びかけられた彼は、断りもなしにポケットにつっこんできたのだった。今、彼はすでに響きだしたこの詩を、自分の横で旅行用の格子柄のひざ掛けに身を包んで座っているシェーンシュタインに読んで聞かせた。
「わが心よ、いい加減に落ち着くのだ!
なぜかくも騒ぐのか?
彼女を残して行かねばならないのが、
運命の意思なのだから。」
『春に』 Im Frühling D882 Franz Schubert
10月15日・・・シェーンシュタインとともに、ツェリスを離れ、両親の待つ家へ
28歳・・・父と争うはめに陥るのが、なんと少なくなったことか、と彼は驚いている。父は息子の暮らしがほんの一時しのぎで、住むところがないことにさえ、もう今までのようには気にかけない。息子を手元に置き、教職に就かせたいという願いも諦めていた。
画家のシュヴィントが彼を連れ出し、友人たちと酒を飲み語り過ごした。
いくつかの出版社から、彼の作品が出版された。
偶然、かつての恋人テレーゼに出会う。見つけたのはシューベルトの方で、彼女はなかなか気づかなかった。たわいもない話の中に、彼の心が傷つくことを知らずに何気なく話す彼女。「急いでいるの、フランツ、さようならフランツ」くりかえしを当てにすべくもない別れである。
5月・・・フォーグルの後を追って、シュタイアー(北オーストリア)などへの旅へ
この避暑が彼の人生の旅で、最後の、そしてほっと息のつける逗留地となった。
彼はみなから心優しくもてなされた。
自分の歌曲がいかに受容され、扱われているかをだんだん知るようになった彼は、愕然とする。どちらかというと軽いものが人々の心を強く動かし、これに反して口ごもるようなかたくなな調子は受け入れられないことが、ようやくはっきりわかってきた。
1825年は、彼にとって繁栄と幸福の時で、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。
1825年5月7日・・・アントニオ・サリエリが亡くなる
サリエーリが自殺した。モーツァルトの死は自分のせいだと嘆き悲しみ、自責の念にさいなまれて服毒自殺をはかった、しかしそれは噂で、悪意ある噂に過ぎないようだ、と兄フェルディナントに聞かされて、彼は取り乱し、嘆き、くやしがった。
29歳・・・2月の初め、雪がうず高く積もった。彼は家を出て、はるか離れた市外、フルーヴィルト館に引っ越した。隣のビルにシュヴィントが住む、この界隈は友達のあいだで「シュヴィンディエン」と呼ばれていた。
最後の友人になるバウェルンフェルトと出会ったのは、仲間を必要とし、集まるのが好きだったシュヴィントのおかげである。
バウェルンフェルトはシューベルトより5歳年下、シュヴィントより2歳年上である。まだ法学部の学生だが、喜劇『催眠術師』ですでにちょっとした成功をおさめていた。
この友情のためには、あまり時間がない。この時間を彼らは存分に使った。毎週のシューベルティアーデでは、もう以前の様に同じ歌曲やピアノ曲がくり返されることはなくなり、いつも何か新しく作曲されたものが歌われ奏でられるようになる。
話好きのバウエルンフェルトがシューベルトを刺激する。当然のことながら、彼はこの新しい友人、喜劇作家から台本を期待している。
2,3日前に彼は歌曲を作ったが、それがいつもと違い、まだ彼の中で響いている。書き終えるやいなや作曲したものを忘れてしまうということが彼にはよくあった。それは友人たちには理解できない彼の癖のひとつだった。しかしこの歌曲は、その響きがしばらくのあいだ彼の脳裏を離れず、彼の中で歌っている・・・
カール・ラッペの詩『夕映えに』
病に臥したベートーヴェンを見舞った。
30歳・・・1827年3月26日
ベートーヴェンの葬儀に、松明を掲げて行列した36人の中にシューベルトもいた。
シューベルトはベートーヴェンを尊敬し、ベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。
シューベルトは街中を、サロンを渡り歩きもてはやされる。
ある伯爵家で開催されたシューベルティアーデで、歌曲を歌ったシェーンシュタインを褒めちぎった主催者夫人は、伴奏していた作曲家に気づかなかった。その夕べはずっとピアノの後ろに座ったままの彼は、まるでその中に姿を消してしまったかのようだった。
どうやら彼には音楽しかないように見えた。・・・とにかく生きているのはついでのようだった。
9月・・・弁護士のバハラーと、その夫人でピアニストのマリー・バハラーが彼をグラーツに招待してくれた。
音楽に精通したやさしい人たちにまともに受け止めてもらった彼にとっては、さすらいの最後の道のりのために力をつけることができた3週間であった。
秋になって、彼は改めてみなを招き、姿を現した。
彼は感動に震えた声で、『冬の旅』を全部通して歌って聞かせてくれた。
Dietrich Fischer-Dieskau; "Winterreise"; (1948); Franz Schubert
31歳・・・1828年3月26日
シューベルトは初めてオーストリア楽友協会内のホールで、私的なコンサートを催した。会場は超満員となった。嵐のような喝さいがわきあがり、どっと押し寄せる崇拝者にもみくちゃにされた。
それからというものショーバーは彼を誘い出すことがほとんどできなくなってしまった。彼はミサ曲を書き、ひとつのソナタのためだけではなく、同時に3つのソナタのために、それから大きな弦楽五重奏曲のためにメモをとる。
シューベルトは、兄フェルディナントの新居に住まわせてもらう。
シューベルトは病気なのだ。
医者のリンナ先生のところに行っていた。
以前から準備していたハ短調、イ長調、変ロ長調の3つのソナタをいっきに書き上げる。彼は弦楽五重奏曲に手を入れる。
それから彼は四手のピアノ曲を書くという幸せをもう一度、くり返し、このへ短調幻想曲を伯爵令嬢カロリーネに捧げ、彼らしいやり方で彼女にメッセージを送るのだった。
シューベルト:幻想曲ヘ短調Op.103(松本和将、下田望) 2016.04.02第4回カンマームジークアカデミー in 呉〜アカデミーアーティストの響演
「作曲法をもっと勉強しなくちゃ」この決意にフェルディナントは驚いてしまう。
「お前がかい?」
「フーガを勉強するつもりなんだ。」
ジーモン・ゼヒターのもとに入門を願い出た彼は、すぐに最初の授業を受ける。
「僕はまだこんなにいろんなことを知らなかったんだ。」
10月31日に、兄弟に招待を受けた。
フランツはちっともしゃべらない。
食事がきた。ドナウ川の魚だ。
みなで乾杯した。彼は手をつけることはつけたが、すぐにフォークをわきへ置いてしまった。食べられない、と彼は兄たちというより、むしろ自分自身に言った。
吐き気がする。この魚は毒が入っているような味がするよ。
それは噂のような予感のような味がする。サリエーリの、モーツァルトの思い出のような、毒のような味がする。
家に連れて帰って。
11月11日に床についてしまった彼は、それからもう起き上がることはなかった。
1828年11月19日の午後、フランツ・シューベルトは最後の数年、彼を苦しめ、彼の道連れとなった病で亡くなった。
彼の死因は、腸チフスではないかとも言われているが・・・
Ende