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岡崎体育という人・・・初めて知りました(*^。^*)

昨日、ある人のブログを読んでたら、右サイドに岡崎体育文字がチラチラ目に入りました。。

 

な~に~、これ、岡崎市の体育祭の記事」書いてんのかな・・・

 

するとこのブロガーさんは、岡崎市もしくはその近隣のひとかな・・・

 

まあ、体育苦手だし・・・

 

また今度・・・ね(*^-^*)

 

・・・

 

ところが、

 

ちょっとした手違いで・・・

 

見てしまったのです。

 

私・・・

 

ナカニシさんのブログ

 

炭酸せんべい

 

そこで初めて知ったのです、

 

このひとを・・・

 

岡崎体育「Natural Lips」 字幕見ないと英語に聞こえる日本語の曲 - 炭酸せんべい

アハハ!面白い!

2017/05/29 14:17
とついコメントしてしまいました。

 

 うん! おもしろい☆
岡崎体育 『Natural Lips』Music Vi

 

ナカニシさんのブログには、この曲を作るきっかけなどもUPしてありますので、読んでみてくださいね。

 

 

 

こっちを聴いたらやっぱり、あっちも聴かなきゃ!

 

何を隠そう私は、タモリ空耳アワーが大好きなのです💛


空耳アワー100連発(32)(編集版)

 

あ~~(*'▽') いっぱい笑った~!

 

明日も、がんばろう!!(*'▽')💛

 

雨上がりの曲・・・ビートルズ(^^♪

昨日からの雨が上がったようです。

 

テレビのニュースで、ビートルズのアルバムが発売されたと、度々目にします。

 

 

そんなわけで思い出したのですが、以前勤めていた大型小売店で、雨が止んだら、必ず流す曲がありました。

 

それがこの曲です。


Here Comes The Sun - The Beatles Tribute

 

Here comes the sun
ほら 太陽が昇るよ

Here comes the sun and I say
ほら 太陽が昇るよ

It's alright
もう大丈夫


Little darling, it's been a long, cold, lonely winter
ねえ 長くて孤独な冬だった

Little darling, it feels like years since it's been here
ねえ もう何年も経ったような気さえするんだ


Here comes the sun
でも ほら 太陽が昇るよ

Here comes the sun and I say
ほら 太陽が昇るよ

It's alright
もう大丈夫


Little darling, the smiles returning to their faces
ねえ 笑顔が皆の顔に帰って来るんだ

Little darling, it seems like years since it's been here
ねえ もう何年も経ったような気さえするんだ


Here comes the sun
ほら 太陽が昇るよ

Here comes the sun and I say
ほら 太陽が昇るよ

It's alright
もう大丈夫


Sun, sun, sun, here it comes
太陽が 太陽が 太陽が ここにやってきた

Sun, sun, sun, here it comes
太陽が 太陽が 太陽が…


Little darling, I feel that ice is slowly melting
ねえ 氷もだんだんと溶けて行っているみたいだ

Little darling, it seems like years since it's been clear
ねえ 何年も晴れだったような気さえするんだ


Here comes the sun
ほら 太陽が昇る

Here comes the sun and I say
ほら 太陽が昇る

It's alright
もう大丈夫


Here comes the sun
ほら 太陽が昇る

Here comes the sun
ほら 太陽が昇る

It's alright
もう大丈夫

It's alright
もう大丈夫だよ

https://ameblo.jp/arinko-beatles/entry-11216645734.html

 

気楽に聴けるいい曲ですね。

 

今、改めて歌詞を調べてみたのですが、やっぱりいいですね。

 

この曲を流していたお店は、ユニークな雑貨や、お役立ちグッズなんかをたくさん扱っていました。店内を見て回るのも仕事の一つでした。

 

私はそこで、代表電話の取次ぎと店内放送などを担当していました。

 

百貨店などでもそうですが、雨が降ってくると、傘袋が出入り口に置いてあったり、売り場ではお客様のお買い上げ商品に、透明のビニールカバーをかけたりします。

 

雨が降ってきたら、必ず流す曲もありました。

 

「雨にぬれても」だったと思うのですが、こちらはちょっと自信がありません(´・ω・)

こちらも心地よいです。

 


Raindrops Keep Falling on My Head(雨にぬれても) - B.J.Thomas - 訳詞付き

 

おまけ   

おしまいにこの曲も、聴いてみてください。

 


アニーローリー

 

この曲は、デパートに勤めていた時、毎日閉店前に流していた曲です。

 

                  お疲れさまでした☆

 

 

 

 

 

 

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・最終回

 

いよいよ最後になりました。

描き始めたら、最後まで描かないと、でも、なかなかすすまない・・・

この本も返さなくてはならないし・・・

 

シューベルトの生きた時代、それはナポレオンの時代でもありました。

戦いや統治、大衆の思い。

大きな変動の中にあっても、人々の生活は営まれる。

 

シューベルティアーデのような、音楽の夕べ。

街には歌があふれていた。

 

それはまわりに音楽があり、皆がよく知るゲーテやハイネ、ミュラー、シラーをはじめ、たくさんの人々によって、『詩』が書かれ、人々が集い、詩が朗読され歌う場所があり、語り合う仲間が自然に増えていった。

 

かつての日本の『歌声喫茶』であり

今も変わらず続けられている教会での聖歌や讃美歌が歌われるミサ。 

似たようなものがあるのでしょうか?

 

シューベルトは、一緒に暮らした詩人で検閲官でもある、気難しいマイヤー・ホーファーの書いた詩を見ては、すぐに曲を作り始めるのだった。

それは、コンヴィクト(寄宿制神学校)時代からと同じように・・・

人気のバリトン歌手のフォーグルを紹介してくれ、シューベルトの歌曲が世に知られるきっかけをくれたのも、マイヤー・ホーファーだった。

 

マイヤーホーファーも、仕事に堅実であり、そうであるほどに検閲の仕事の矛盾に悩み、孤独の中にあった。

 

早速ですが、曲をお聴きください、かなり長いですが・・・


Franz Schubert , Songs for male chorus part 2, Robert Shaw

 

前回までの記事

 

vmari-arekore.hatenablog.com

25歳・・・シューベルトは、ショーバーの家で妹ゾフィーとその母と共に暮らしていた。ショーバーは、シュパウンの妹マリーと恋仲にあったが、彼が反教会的であり悪評高い道楽者であり、得体の知れない性格であるという理由から、シュパウン家に受け入れられなかった。彼女は姿を消した。何の説明もなく別れの言葉もなしに、彼は置き去りにされた。6年前に求婚し結婚するつもりだったのに。

 

シューベルトもショーバーも思う相手と結婚まで行けなかったのです。

その喪失感はどのようなものだったでしょう。

恋愛と結婚とは違う・・・今も昔もそんな風に思う人が多いのでしょうか。

ショーバーは、裕福で女性にももてたから屈辱感も大きかったかもしれません。

憂いを忘れるように、何かを求め、彷徨ったのでしょう。

 

ドナウ河畔に、あの手招きする女性たちのもとに、足を向かわせたのでしょう。

 

シューベルトは、病気にかかっているようです。

 

「太陽さえもここでは冷たく思える

花は萎み、命は老い

それにみなのお喋りは空しく響く・・・

どこにいても私はよそ者」

 

「ピアノのうまいリーベンベルクは言った。

「この歌曲『さすらい人』の変奏曲をピアノのために書いてくださるなら、お礼を期待していただけますか、シューベルトさん」

 

そして彼は、作り上げた。『さすらい人幻想曲


Evgeny Kissin - Schubert - Wander Fantasy in C major, D 760

 

この後、彼はショーバーの元を離れ、家族のもとへ・・・

挨拶の言葉を交わしたとき、父は、自分がもうどんなことにも驚かなくなっていることに、そして息子がやつれて、元気がないように見えることにも気が付いていた。

彼らはいつもと違って遠慮がちに、親切に彼の暮らしを整えてくれた。

 

1823年・・・ショーバーと妹ゾフィーやシューベルティアーデの仲間たちと新年のあいさつを交わし祝った。

 

26歳・・シュパウン家が紹介してくれた医者アウグスト・フォン・シェファーにかかった。診察中、彼は痛みと羞恥心で息を凝らしていた。

当時猛烈な勢いで広がっていたフランス病、彼は梅毒にかかっていたのではないか?

彼は水銀療法を受けた。より正確に言うなら、毒物で治療されたのではないか・・・

 

足音を忍ばせて過ぎていった1823年

4月10日・・・彼は今までの出版社ディアベリ社に、契約を解消する旨を伝えている。

「なお最後にお願いしなければなりませんが、私の全作品の草稿を、版があるのもないのも、とにかくすべてお返しくださいますように。」

ほぼ同じころに作曲の依頼も辞退している。

シューベルティアーデも行われなくなった。

 

5月・・・ショーバーの妹ゾフィーが、恋人の測量技師と結婚した。

「私の健康状態は思わしくなく、まだ外出をすることはかないません」と、彼はある知人に宛てて手紙をしたためた。

 

秋になるとショーバーは煩わしくなり、シューベルトにフーバーのところにいくといいよとすすめ、逃げ出した。

 

クリスマスイブ・・・シューベルトは、のっぽのフーバーのもとに居候して2か月になっていた。

画家のシュヴィントが、ショーバーに宛てて手紙を書いた。「シューベルトはよくなってきた。発疹のために髪の毛を剃らねばならなかったのだが、もうすぐ鬘をつけないで歩くことができるようになるだろう」と

 

シューベルトは、机であるいは窓辺で作曲した。

 

当時、検閲が厳しく、彼のために書かれたオペラの台本に許可がもらえなかったばかりか、修正の要望もついて返された。また他の台本も禁止になったり、幾人かの伯爵に献呈した歌曲も、伯爵の同意文書が遅れるなどで、検閲にひっかかった。

 

27歳・・・彼の誕生日を数人の男女で祝った。

彼のそばには、ふたりめの先生ベルンハルト博士がいつもお供をしていた。

 

2月17日のウィーンの新聞に掲載

美しき水車小屋の娘』いよいよ出版。ヴィルヘルム・ミュラーの詩による歌曲集。

フランツ・シューベルト作曲のピアノによる伴奏つきの声楽曲。


SCHUBERT: Die schone Mullerin/Fritz Wunderlich 美しき水車小屋の娘/F.ヴンダーリッヒ

シューベルトの場合、よくそうであるように悲しみ、虚脱と恍惚が短調ではなく長調で描かれる。冬に読むために、冬に歌うために。

 

楽友協会ホールでイ短調弦楽四重奏曲が初演された。


**♪シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 「ロザムンデ」 Op. 29, No. 1, D. 804 / ウィーン弦楽四重奏団 1981~87年

 

彼の音楽は、まだまだ種切れどころではない。これは彼にもわかっている。しかしながら体調だけでなく、旧友たちがいないことも、彼を悲しませる。どうやらそこには、教養も品もない人たちが群がってくるようになったようだ。

 

やることなすこと災いばかり、と大袈裟に考えがちになる彼だが、反対に作曲ではすべてうまくいっていた。

 

5月25日・・・再びツェリスのエスターハージ伯爵の館へ

今回は使用人棟ではなく、城館の一室がもらえた。

 

ヨゼフィーネには、到着したその晩に偶然、出会ったが、彼女は今やそれくらいの距離をとるのがいいと自分ではかったかのように、投げキスをよこして、彼の当惑を愛らしく取り除いてくれた。

 

食卓では11歳になっていた小さな弟アルベルトとカロリーネの間が彼の席で、最初の何日かはくたくたになってしまった。

毎朝10時ごろから、アルベルトに教え、マリーアとカロリーネもそれに加わり、時には散歩を楽しんだり、伯爵家の人々や、歌い手のシェーンシュタインを交えて、演奏会が催された。

 

父からの手紙でサリエーリ先生の退職と、副楽長のアイベル先生が後継者になられたことを知った。

眠っていた懐かしい記憶が呼び覚まされる。仕事を譲る準備をしていたことは、先生を訪ねた折に聞いていたが、退職のことは初耳である。実際に聞かされてみると、思い出の中で明るく、響き渡っていた場所がぽっかり空になり、暗くなってしまった気がする、先生についての悪い噂はことごとくはねつけてきた。僕の恩師なんだ。サリエーリ先生から教えてもらったのはとうてい対位法だけじゃないんだ。ウィーンに帰ったらサリエーリ先生を訪ねてみよう、と考えた彼の脳裏に、先生が多少なりとも成績で助けてくれたのに、不首尾に終わってしまった就職活動がいつまでも消えない残響の様に浮かんでくる。

 

ツェリスを経つ前の晩彼は広間の遊戯用のテーブルの上に一冊の本を、エルンスト・シェルツェというさえない名前の、今まで知らなかった詩人の詩を見つけた。

この詩に呼びかけられた彼は、断りもなしにポケットにつっこんできたのだった。今、彼はすでに響きだしたこの詩を、自分の横で旅行用の格子柄のひざ掛けに身を包んで座っているシェーンシュタインに読んで聞かせた。

 

「わが心よ、いい加減に落ち着くのだ!

なぜかくも騒ぐのか?

彼女を残して行かねばならないのが、

運命の意思なのだから。」


『春に』 Im Frühling D882 Franz Schubert

 

10月15日・・・シェーンシュタインとともに、ツェリスを離れ、両親の待つ家へ

 

28歳・・・父と争うはめに陥るのが、なんと少なくなったことか、と彼は驚いている。父は息子の暮らしがほんの一時しのぎで、住むところがないことにさえ、もう今までのようには気にかけない。息子を手元に置き、教職に就かせたいという願いも諦めていた。

 

画家のシュヴィントが彼を連れ出し、友人たちと酒を飲み語り過ごした。

 

いくつかの出版社から、彼の作品が出版された。

 

偶然、かつての恋人テレーゼに出会う。見つけたのはシューベルトの方で、彼女はなかなか気づかなかった。たわいもない話の中に、彼の心が傷つくことを知らずに何気なく話す彼女。「急いでいるの、フランツ、さようならフランツ」くりかえしを当てにすべくもない別れである。

 

5月・・・フォーグルの後を追って、シュタイアー(北オーストリア)などへの旅へ

この避暑が彼の人生の旅で、最後の、そしてほっと息のつける逗留地となった。

彼はみなから心優しくもてなされた。

自分の歌曲がいかに受容され、扱われているかをだんだん知るようになった彼は、愕然とする。どちらかというと軽いものが人々の心を強く動かし、これに反して口ごもるようなかたくなな調子は受け入れられないことが、ようやくはっきりわかってきた。

 

1825年は、彼にとって繁栄と幸福の時で、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。

 

1825年5月7日・・・アントニオ・サリエリが亡くなる

サリエーリが自殺した。モーツァルトの死は自分のせいだと嘆き悲しみ、自責の念にさいなまれて服毒自殺をはかった、しかしそれは噂で、悪意ある噂に過ぎないようだ、と兄フェルディナントに聞かされて、彼は取り乱し、嘆き、くやしがった。

 

29歳・・・2月の初め、雪がうず高く積もった。彼は家を出て、はるか離れた市外、フルーヴィルト館に引っ越した。隣のビルにシュヴィントが住む、この界隈は友達のあいだで「シュヴィンディエン」と呼ばれていた。 

 

最後の友人になるバウェルンフェルトと出会ったのは、仲間を必要とし、集まるのが好きだったシュヴィントのおかげである。

バウェルンフェルトシューベルトより5歳年下、シュヴィントより2歳年上である。まだ法学部の学生だが、喜劇『催眠術師』ですでにちょっとした成功をおさめていた。

 

この友情のためには、あまり時間がない。この時間を彼らは存分に使った。毎週のシューベルティアーデでは、もう以前の様に同じ歌曲やピアノ曲がくり返されることはなくなり、いつも何か新しく作曲されたものが歌われ奏でられるようになる。

 

話好きのバウエルンフェルトシューベルトを刺激する。当然のことながら、彼はこの新しい友人、喜劇作家から台本を期待している。

 

2,3日前に彼は歌曲を作ったが、それがいつもと違い、まだ彼の中で響いている。書き終えるやいなや作曲したものを忘れてしまうということが彼にはよくあった。それは友人たちには理解できない彼の癖のひとつだった。しかしこの歌曲は、その響きがしばらくのあいだ彼の脳裏を離れず、彼の中で歌っている・・・カール・ラッペの詩『夕映えに』 

夕映えの中で Ð-799

 


Fritz Wunderlich singt "Im Abendrot" Schubert

 

病に臥したベートーヴェンを見舞った。

 

30歳・・・1827年3月26日

ベートーヴェンの葬儀に、松明を掲げて行列した36人の中にシューベルトもいた。

シューベルトベートーヴェンを尊敬し、ベートーヴェンシューベルトの天分を心底認めていた。

 

シューベルトは街中を、サロンを渡り歩きもてはやされる。

ある伯爵家で開催されたシューベルティアーデで、歌曲を歌ったシェーンシュタインを褒めちぎった主催者夫人は、伴奏していた作曲家に気づかなかった。その夕べはずっとピアノの後ろに座ったままの彼は、まるでその中に姿を消してしまったかのようだった。

どうやら彼には音楽しかないように見えた。・・・とにかく生きているのはついでのようだった。

 

9月・・・弁護士のバハラーと、その夫人でピアニストのマリー・バハラーが彼をグラーツに招待してくれた。

音楽に精通したやさしい人たちにまともに受け止めてもらった彼にとっては、さすらいの最後の道のりのために力をつけることができた3週間であった。

 

秋になって、彼は改めてみなを招き、姿を現した。

彼は感動に震えた声で、『冬の旅』を全部通して歌って聞かせてくれた。

 


シューベルト / 冬の旅 / 溢れる涙 / Franz Schubert / Winterreise / Wasserflut

 

31歳・・・1828年3月26日

シューベルトは初めてオーストリア楽友協会内のホールで、私的なコンサートを催した。会場は超満員となった。嵐のような喝さいがわきあがり、どっと押し寄せる崇拝者にもみくちゃにされた。

 

それからというものショーバーは彼を誘い出すことがほとんどできなくなってしまった。彼はミサ曲を書き、ひとつのソナタのためだけではなく、同時に3つのソナタのために、それから大きな弦楽五重奏曲のためにメモをとる。

 

シューベルトは、兄フェルディナントの新居に住まわせてもらう。

 

シューベルトは病気なのだ。

医者のリンナ先生のところに行っていた。

 

以前から準備していたハ短調イ長調変ロ長調の3つのソナタをいっきに書き上げる。彼は弦楽五重奏曲に手を入れる。

それから彼は四手のピアノ曲を書くという幸せをもう一度、くり返し、このへ短調幻想曲を伯爵令嬢カロリーネに捧げ、彼らしいやり方で彼女にメッセージを送るのだった。


シューベルト:幻想曲ヘ短調Op.103(松本和将、下田望) 2016.04.02第4回カンマームジークアカデミー in 呉〜アカデミーアーティストの響演

 

「作曲法をもっと勉強しなくちゃ」この決意にフェルディナントは驚いてしまう。

「お前がかい?」

「フーガを勉強するつもりなんだ。」

 

ジーモン・ゼヒターのもとに入門を願い出た彼は、すぐに最初の授業を受ける。

「僕はまだこんなにいろんなことを知らなかったんだ。」

 

10月31日に、兄弟に招待を受けた。

フランツはちっともしゃべらない。

食事がきた。ドナウ川の魚だ。

みなで乾杯した。彼は手をつけることはつけたが、すぐにフォークをわきへ置いてしまった。食べられない、と彼は兄たちというより、むしろ自分自身に言った。

吐き気がする。この魚は毒が入っているような味がするよ。

それは噂のような予感のような味がする。サリエーリの、モーツァルトの思い出のような、毒のような味がする。

 

家に連れて帰って。

 

11月11日に床についてしまった彼は、それからもう起き上がることはなかった。

 

1828年11月19日の午後、フランツ・シューベルトは最後の数年、彼を苦しめ、彼の道連れとなった病で亡くなった。

 

 

彼の死因は、腸チフスではないかとも言われているが・・・

 

              Ende☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の日の贈り物・・・(*^-^*)

今年の母の日には、何を贈ろうかと、毎年悩んでしまいますよね

 

これも元気でいてくれるから・・・

 

丁度母の日に届くように考えて、あちこち出かけては、あれよりこれが・・・とか、去年は洋服だったから、違うものがいいかな・・・とか、迷いますよね。

 

今年はいつもとちょっと変えてみようと思い、『にゃんこのフェルト手芸キット』

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これをメインにあれこれ送ったけれど、なんか暑くなってきたね(´・ω・)

 

しかも頒布会で、これから届いたら送る予定(=^・^=)

ますます暑くなるね。

 

かわいいにゃんこだよね 💛

 

「作るの大変かな~  でも、お母さんは、洋裁が得意だし、和紙のちぎり絵とかも、上手に作るよね。そして私にもくれるよね。不器用な私は、いまだにボタン付けすらあやしい・・・今度、帰ったらできてるかな・・・」

 

「どれだけかかってもいいから、ボチボチ作ってみてね🍀

 

それから私は、でもあります。

 

子供たちからもらいました 💛

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ありがとう・・・元気でいるからね💛

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№3

 

前回までの記事

 

vmari-arekore.hatenablog.com

 

vmari-arekore.hatenablog.com

21才・・・1818年7月7 エスターハージ伯爵家の音楽教師として、ハンガリーのツェリスへの5か月の旅券が交付された。

 

エスターハージ伯爵家の二人の令嬢、16歳のマリーアと13歳のカロリーネ

シューベルトは、カロリーネのほっそりとした子供らしい背中に、しぐさに、愛らしい言葉遣いに、自分でも気づかないような優しい恋心を覚えていた。

 

しかし伯爵家の小間使い、皆にペーピと呼ばれた美しいヨゼフィーネとの密やかな恋が始まる頃には、カロリーネはむしろ彼のアバンチュールの噂を面白がった。

愛することができるには、カロリーネはまだ幼すぎた。

 

ヨゼフィーネは彼より少し年上で、男とつきあうことにも慣れて、必死で危険を恐れるすべを心得ていたが、優しく言い寄ってくる彼には心を動かされた。

 

シューベルトとヨゼフィーネ、ふたりの愛の交わりが始まり、やがて晩年のシューベルトを苦しめる病へと続くもとになったとも言われている。

 

この頃、シューベルトの最良の歌い手の一人ともいわれるシェーンシュタインが、彼にその勤めを思い出させ、彼を音楽へ呼び戻した。

 

11月・・・ツェリスを後にするまで、ヨゼフィーネとの愛を重ねた。

 

彼はどこえかえるのか?

彼は家には帰らず、友人の詩人マイアーホーファーのところに転がり込んだ。

 

彼らはほとんど毎晩、宿屋を兼ねた居酒屋へ、私的なパーティーへ、コンサートへ、劇場へ出かけていく。シューベルトは度々フォーグルから招待を受ける。

ひとりでに新しい友人ができるかと思えば、古くからの友人がウィーンをあとにし、いなくなってしまう。

 

22歳・・・ゲーテの詩による、『羊飼いの嘆きの歌』を聴いてください


Schubert D 121 Schäfers Klagelied

 

大学で商法を教え、弁護士としてもウィーン市民に評判の高かったゾンライトナーは、友人や音楽家たちを招き、金曜日ごとに音楽の夕べを催していた。

シューベルトも招待され、今までより注目されるようになった。

 

ゾンライトナーが出版社探しをはじめ、ディァベリ社を説得することに成功し、友人たちが費用の40%をもって、シューベルトの作品が、初めて出版されることになる。

 

23歳・・・バリトン歌手フォーグルとともに北部オーストリアを旅行

『鱒』(ます)として有名な、ピアノ五重奏曲長調


*♪シューベルト: ピアノ五重奏曲 イ長調 「ます」 Op. 114, D. 667 / アンドラーシュ・シフ(ピアノ)、ハーゲン弦楽四重奏団 1983年12月

 

この時期の彼の曲は、受け入れられなかったり、検閲で禁止されたり、上演が中止になったり・・・屈辱感と、失望感の中にいた。

 

彼は、マイアーホーファーの元を離れ、近くで一人暮らしを始めた。

彼は市内で知られ、評論の中で名を挙げられ招待を受けるようになった。

最初の歌曲がいくつか委託出版された。

歌芝居『双子の兄弟』が宮廷オペラ座で上演された。


♪シューベルト:歌劇「双子の兄弟」 D.647 - 序曲 / クリスティアン・ベンダ指揮プラハ・シンフォニア管弦楽団 2006年11月

 

1820年11月21日・・・彼の最初の歌手で、初恋の女性テレーゼは、パン屋の親方ヨーハン・ベルクマンに嫁いだ。「顔にあばたがあり、必ずしも美人とはいえないが、善良な、心から善良な」テレーゼが

 

シューベルトの思いは複雑だったことでしょう。

テレーゼは、シューベルトを待とうと思わなかったのでしょうか・・・

 

24歳・・・1821年4月26日の「ドレスデン夕刊新聞」の短信に、シューベルトのファンの熱狂ぶりを伝えている。

 

シューベルトがたびたび招待を受けるようになると、特に裕福な友人たちは、彼の身の回りまで気を配ってくれるようになった。

大家への支払いが何か月も滞ったり、背広の仕立て代がなかなか支払われなかったりと。彼はそれを忘れる、それを押しのける。

 

そんなシューベルトの無頓着さが、ほおっておけなかったのでしょうね。

 

書籍商のヨーゼフ・フーバーは、シューベルトよりゆうに頭ふたつも背が高かったため、彼はこの男と並んで散歩することを避けていたが、このフーバーが最近、画家のレーオポルト・フォン・ぺルヴィーザーとともに彼の強力な後援者の一人になり、しばらくすると部屋まで貸してくれた。皆を盟友の様に堅く結びつけた集い、シューベルティアーデの始まりを、ある手紙で語っている。

 

シューベルティアシューベルトを囲む、音楽を奏でる夕べの集いで、何よりもまず彼と彼の音楽に関するものであるが、うきうきした彼らは、さらに深夜あるいは朝まで上機嫌で、お祭り気分が冷めやらない。楽しみのあとにはひどい二日酔いが待っていることも稀ではない。

 

シューベルトは、彼を援助してくれるショーバーと旅をし、夏から秋を過ごす。

このときにも、アッツェン・ブルックドイツ舞曲が生まれている。

ウィーンに着くと、ショーバーが母と妹ゾフィーと一緒に住まないかと誘った。

 

シューベルティアーデは、相変わらず仲間たちによって催されていた。

 

ある日曜のこと、シューベルトは、カロリーネ・エスターハージを見かけた。

彼女はもう子どもではないが、それでもやはり子どもで、その子を彼は忘れることができず、ずっと愛していた。

まるで彼の思いが偶然、通じたかのように、エスターハージ伯爵がコンサートをするからと、彼を招待してきた。

エスターハージの館で、カロリーネに挨拶をしたとき、彼女は彼にほとんど気づいていないように思えた。それどころか拍手もそこそこに、彼が知らない、また知りたくもない若い男ときゃっきゃ笑っている

 

切ないですね・・・

 

一緒に街の女のところへ行こう、シューベルト

ショーバーはドナウ河畔の娼婦街の女に夢中になっていたのかもしれない。

あの女たちは優しいんだ。なんでもかなえてくれる、どんなばかばかしい願いだってね。 さあ、行こう。

 

シューベルトは、ある日誘惑に負けてしまう。

 

さあ、次回が最後になります。

 

シューベルトはどうなるのでしょうか?

 

どんな曲が生み出されるのでしょうか?

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この本と、Wikipediaを参考・引用しながら、youtubeの音楽の力を借りて、私の思いもちりばめました。

今回も、読んでいただいて、ありがとうございます、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№2

 

前回の記事

vmari-arekore.hatenablog.com

 

 

今回はシューベルトの 恋のお話 も交えて描きます

その前に曲を聴いてみてください。

心の準備・・・なんて・・・


- AVE MARIA DI SCHUBERT - MARIA CALLAS -

いかがでしたか?

それでは16歳からの足跡を辿ってみましょう。

 

16歳・・・コンヴィクトを去るが、週2回はコンヴィクトに通いサリエーリ先生に学ぶことを許される。

相変わらず作曲に励み、度々友人たちや家族に披露した

     教員養成所に通う

 

「ミサ曲を作ってもらえないか」と、毎日曜日に通うリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルファーから依頼を受けた。

 

シューベルトには、そのミサ曲がどんな響きになりそうか、もうわかっていた。彼はある声、一番大事な声を知り、その声が隣の娘、テレーゼ・グローブ聖歌隊の稽古で歌う声を聴いていたからである。

 

そうテレーゼを、そしてその声を誰よりも好きになったのでしょう。

彼女の話す声を聴き、彼が曲を作り、それを彼女が歌う。

 

喜ばしいものにせよ悲しいものにせよ、結末のある恋物語でもない。

なぜならこれには終わりがなく、だらだらと長引き、次第に消えていったのだから。

 

彼は17歳、彼女はひとつ下だった。

 

彼は2年間、自分の意に沿わない教職に就いた。父の監督する学校で助教師をしていたが、彼は教えることにあまり熱心ではなく、詩作(作曲)に熱心に取り組んだ。

 

詩人ヨハン・マイアーホーファーと出会う

 

この期間におよそ250曲もの歌曲が生まれている。

さらに4つのシンフォニー、民衆歌劇、カンタータ、オラトリオ、ミサ曲、ほかたくさんの曲を作っている。

彼は詩が手に入ると、たいていすぐに歌曲を作った。

『野ばら』は、1815年8月15日に、「同盟の歌』『宝を掘る男』『鼠捕り』『月に寄す』と共に生まれている。


『野ばら』 Heidenröslein D257 Franz Schubert

 

シューベルトは、仲間たちの詩に、文芸年鑑の中で見つけた文章に曲を付けた。

 

彼は新たに音楽教師の職に応募したが、受け入れられなかった。

テレーゼはこの知らせを、シューベルトの継母アンナから聞いた。

彼女は彼を慰めることができない。

 

1816年6月から書き始めた日記、書くことで自分の気持ちをテレーゼから離すことが、彼はまだできない。自分の存在のよりよい、おそらく最善の可能性として彼女を愛しているのに、彼女を、同時に自分自身をももう諦めている。

 

「真の友人を見つけた者は幸せである。しかしもっと幸せなのは、妻の中に真の友人を見つけた者である」と彼は日記に書き入れる。

 

また、「こんな時代に、自由な男にとって結婚という考えは耐え難いものだから、彼は結婚しないで憂鬱な気分に陥ったり粗野な欲望に耽ったりする」と・・・

 

今の時代の若者の心と、同じように彼も向き合ったのです。

 

19歳・・友人ショーパーとシュパウンの強い勧めもあり、助教師の仕事を兄に託し、学校と家から離れ、友人シュパウンと暮らすことになった。

  

彼はこの時期に、シュパウンの法学の恩師より、初めて作曲で報酬を得ている。

 

音楽で食べて行くのは本当に大変だったのですね。

 

この頃作られたふたつの交響曲を聴いてください


シューベルト: 交響曲 第4番 ハ短調 D417「悲劇的」 カラヤン / ベルリン・フィル 1978


♪シューベルト:交響曲第5番変ロ長調 D.485 / サー・コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン 1994年

 

晩秋になって彼は、ショーパーと母親の住む冬の館に引っ越した。

 

友達の家を転々とできる人って、幸せなのか、そうじゃないのか、よくわからないな。

楽しそうでもあり、気を使いそうでもあり・・・

 

1818年1月、シューベルトは家族と共に引越し、再び大家族の一員となった。

この時の転入簿に、シューベルトの身長が書き込まれている。

身長157㎝以下の男子は徴集されなかった。当局のために書かれたものだ。

 

彼は友人たちと居酒屋にいるのが好きだった。彼は飲める以上に飲んでしまうのだった。

友人たちや讃美者たちの輪が広がり、彼の評判が高まっていった。

作品が写譜され、ウイーンの家庭音楽会で演奏され歌われるようになった。

彼の一風変わった「直感的な作曲」法の噂が広まった。

 

21歳・・・1818年2月、初めて私的なコンサートが催された。

 

シュパウンのつてで、エスターハージ伯爵家のふたりの娘に、夏の間音楽を教えることになった。姉のマリーアは16歳、妹のカロリーネは13歳。ふたりはピアノがうまいだけでなく、ソプラノの声部を素晴らしく歌い、彼女たちの母もアルトをうまくこなせた。

 

この後、シューベルトにまた新たな恋心が芽生えます。

続きはまた今度・・・(*^-^*)💛

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シューベルトの生涯って。こんなだったんですね・・・№1

 

先日、図書館にDVDの返却に行きました。

わざわざ出かけていかなくても、ネットで見ればいいのに・・・

なんて声も聞こえてきそうですが、

図書館とか本屋さんに行くと、思いもかけない出会いがあったりするものです。

今回も、こんな本との出会いがありました。 

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今回はなんて、実は2週間も前の話なんですが・・・

 

一度は読み終えたのですが、もう2週間延長して、文体にも慣れたこともあり、2度目はさらにかみしめながら読み進めてます。

 

☆ この授業を受けなければ、読むはずもなかったかもしれません。

vmari-arekore.hatenablog.com

 

有名音楽家であるシューベルト、こんなにも短い人生のうちに、たくさんの名曲を残しています。

 

そんな彼も悩み苦しみました。

時代は違っても、いつの世も悩みは尽きず・・・

 

とりわけ父親との葛藤が胸を打ちます。

父親と息子との意見の違い、誰のための人生なのか!

もちろん自分の人生。

だから背いてしまう・・・

シューベルトもそんな生涯を送りました。

 

そして、どうやらゲーテもそのようですが・・・

ゲーテについては、

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ - Wikipedia

 

 

 フランツ・ペーター・シューベルト

1897年1月31日~1828年11月19日

オーストリアの作曲家

 31歳で亡くなっています。

まだまだこれからという年齢ですよね。

 

   cFranz Schubert by Wilhelm August Rieder 1875.jpg

 『歌曲の王 と言われるほど、素晴らしい歌曲、とりわけドイツ歌曲をたくさん残しました。

 

シューベルトを知るほどに、惹きこまれてしまいます。

 

身長155㎝、小柄で丸顔、そして眼鏡

なんだかかわいい!

 

お父さんは教師、息子フランツも教職に就いてもらいたかったようです。

父は妻や子供たちの心の幸せよりも、自分自身のことが、自分に寄せられる声望、昇進のことが気になった。 愛情を惜しんだ彼は、愛情を受けることも少なかった。

 

父は、より良い教職の仕事を求めて転職を繰り返しますが、それは家族のためでもあったように、私には思えるのですが・・・

 

フランツは、5歳から父による教育を受け初め、6歳からヴァイオリンとピアノを学び、リヒテンタール教会の聖歌隊に入り、7歳には神童ぶりを発揮していた。

 

父はアマチュア音楽家で、チェロを、2人の兄フェルディナントとイグナーツはヴァイオリン、フランツがヴィオラを担当して弦楽四重奏を演奏した。

この演奏会は、定期的に行われていたようだ。

 

 10歳・・・宮廷合唱団の少年合唱団員となる。    

    コンヴィクト(寄宿制神学校)に入る。

    オーケストラにはいり、9歳年上の友人シュパウンと共にヴァイオリンを弾く

11歳・・・作曲を始める

 

当時作られた曲を探してみましたが、なかなか見つかりませんでした。

 

何か1曲聴いてみたくて、晩年のピアノ曲をお届けします。

 

幻想曲 へ短調 4手ピアノのためのファンタジア Ð940


Schubert - Fantasia in F minor (Kissin, Levine)

1828年 作曲   気分転換にいかがでしたか?  

    

14歳・・・彼は五線紙を買うことができないほど困窮していた。友人たちが、そっと五線紙の束を用意したり、劇場に連れて行ってくれたりした。                              

    

たまに家に帰ると父は彼が作曲を続けることを快く思わず、というより教職を目指すように、思い通りにならない息子に激昂し手を挙げた。

    幼い時からそうだったように、彼は怯えるのだった。

 

15歳・・・家からはもう援助というより、自尊心を傷つけられるお金しかもらっていなかった。

変声期をむかえたシューベルトを含む4人の合唱団員の少年たちは、給費生としてコンヴィㇰトにとどまることを許された。

シューベルトは、数学がダメだった。それに宗教への懐疑も顔を出してくるきた。      

 

ますます作曲に没頭

空腹と孤独を紛らすのに、音楽はなくてはならなかった。

 

宮廷学長サリエーリより対位法を学び、彼に励まされ作曲を続けた。

  

 サリエリは、モーツァルトにとってはいい人とはいえなかったけれども、シューベルトにとっては誰よりも熱心に指導してくれた素晴らしい恩師のようです。

 兄フェルディナントが立ち寄り、母さんの具合がよくないと伝えてくれた。

 母、エリーザベトは、寝たきりになり、1812年5月28日に亡くなった。

 

16歳・・・1813年4月、父が20歳年下のアンナと結婚し、シューベルトは一目で気に入った。アンナもシューベルトを気に入ってくれた。

 

作曲のためにピアノは気が散るからと使わなかった。

彼は、詩作すると言っていたようです。

おどけるのも得意で、仲間を喜ばせ愛された。

 

信頼する良き仲間がいたからこそ、また年齢の違う友人と付き合えたことでも、

よきものを得られたのかもしれません。

 

 次回は、シューベルト16歳からの続きを、恋のお話なども交えて描いてみます。