シリカ(珪素)ナノコロイド水・・・ 霧島『長寿の里』

まさか水を買う時代が来るなんて・・・

昔はそんなこと考えられなかったのではないでしょうか?

けれども今はそれが普通になっているようです。

実際どれだけの人が、水を買っているのでしょうか?

少なくとも我が家は5年ぐらい前から、定期的に購入しています。

どちらかというと夫の方が、よく飲んでいます。

 

私にとって思い出深い霧島山、朝に夕に眺めたものです。

私は、宮崎生まれですが、霧島山がよく見えるところに住んでいました。

下の写真ほど近くではありませんが・・・

「霧島山 画像」の画像検索結果

そんな懐かしい霧島のお水を飲んでいます。

 

神話の地「鹿児島県 霧島」。手つかずの自然が今も残され、霧島国立公園として守られた敷地内の地下144メートルより然-しかり- 霧島火山岩深層水は採取されています。

 

霧島の岩盤でゆっくりと濾過されることでシリカマグネシウムなどがバランスよく含まれています。「中硬水」は、軟水の飲みやすさ、硬水のミネラルバランス両方の長所を兼ね備えた水です。然-しかり- 霧島火山岩深層水は、硬度の高いヨーロッパ地方の水に含まれるダイエットサポート成分「サルフェート」や海外・日本の美容雑誌等でも話題の美容成分「シリカ」も多く含まれています。

さらに、然 霧島火山岩深層水の特徴である「中硬水」は、優れた抽出力を持っており、お茶やコーヒーから旨味や香りを引き出します。。

然-しかり- 霧島火山岩深層水は、霧島の自然が育んだ豊富なミネラルが溶けだした、日本では珍しい「中硬水」。
硬水にはない飲みやすさ、軟水にはないミネラル量とバランスに優れており、まろやかな飲み心地で身体のすみずみまで巡ります。

然 霧島火山岩深層水に含まれる成分には、身体のリズムを整えたり、コラーゲンの働きをサポートするなど、さまざまな働きを持つ成分が含まれています。
        〈長寿の里 Webサイトより〉

 
 それから、さらに生命知水』 シリカナノコロイド水
なる水を飲んでみたくなりました。
 
こんな感じで届きました。    

f:id:vmari:20170505195054j:plain

この水を飲んでいる方々の体験談を読むと、だいたい3ヶ月ぐらいたってから、
なんとなく体が軽くなった。とか、いつの間にか元気になって、活動的になっているようです。
我が家では、2ℓの『然』はお茶やコーヒーを煎れるときに使います。
 
コンパクトな 300mlの 『生命知水』は時々の水分補給に飲んでいます。
 
便秘がちな人は、とくに継続して飲んでみるといいかもしれません。

原宿:竹下通り~ブラームスの小径へ

 

久しぶりの原宿

ミュシャ展の帰りに行きました。

f:id:vmari:20170502230315j:plain

f:id:vmari:20170502231047j:plain

 原宿駅から竹下通りに入ってすぐ左手に 『DAISO』 があります。

そのすぐ脇を入ると、奥に 『ギャラリーハセガワ』が、ひっそりと佇んでいます。 友人はここで来年個展を開く予定です。

 

こんなところにギャラリーが・・・知る人ぞ知る、なのかもしれません。

www.hasegawa-jp.com

ここに作品が並びます。

f:id:vmari:20170502235919j:plain

通りの賑やかさが嘘のように静かです。

 

通りに戻り、もう少し行くと、右手にこんな狭い路地が・・・そこをを抜けると・・・

f:id:vmari:20170503001806j:plain

 

竹下通りとほぼ平行に走るブラームスの小径』

f:id:vmari:20170503002247j:plain

 

素敵ですね。次はこの小径をゆっくり散歩したいと思いました。

ランチはこの茶色のレンガの建物のすぐ隣の2階で食べました。

隣じゃなくて、つながってたのかも・・・(´・ω・)

www.bluegarden.jp

 

とってもおしゃれでリーズナブルでしたよ(*^-^*)

 

その日は、たくさん歩いた一日でした☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミュシャ・・・国立新美術館にて

1月のある日、ラジオからミュシャ、スラヴ叙事詩チェコから・・・世界初・・・

という単語が聞こえてきた。

誰だか知らないけど、どうやら日本のどこかで、いつからかわからないけど、なんだかとても、見たい、見に行きたい展覧会がある・・・と思ったものの、つい忘れてしまっていた。

 

月曜の朝、日本画を描いている友人から、突然興奮した感じで電話がかかってきた。

 

「今日、一日空いてる?」そう言われて何か大事なことがあるようなので、「とくになにもないです。何かあるのですか?]ときいてみた。

ミュシャよ、ミュシャ!! 今日までなの!」

「ああ、今日までなんですね・・・知らなかった」

「違うの!ミュシャ展は、6月5日までだけど、私の持ってる招待券2枚あるんだけど、今日までなのよ。行かない?」

「あ、行きたい! 場所は、最寄り駅はどこでしたっけ?」

国立新美術館で、地下鉄乃木坂駅に直結しているの」

地下鉄、苦手だな~ 行き方がいっぱいあって、迷いそう・・・

そんなことを思ってしまったから案の定迷いましたとも(>_<)

 

チケット売り場に行列ができてる。やっぱりかなり人気がありそう・・・

私はその横を通って中に入った。

 

待ち合わせの2階にかなり遅れて到着・・・本当にすみませんでした*1

 


ミュシャ展PR

 

本当に大きい・・・私が絵を見ているのではなく、絵が私を見つめている。

何かを言いたげでもあり、言葉を失ってしまったようにも見える。

哀しみや虚しさを通り越したような乾いた心がそこにあるのだろうか・・・

 

現実の人々と幻影と、彼の脳裏には見えているのだろうか・・・

色合いが柔らかくて、戦いの本当の悲惨さは、どこかに消し去っているようにも感じる。白い衣がひときわ目を引く。

聖書、宗教改革、聖職者、兵士、女、子供、老人、その他の大勢の人々

抑圧と解放、戦争と平和、希望・・・

 

スラヴ叙事詩のあとに、パリで活躍していたころのポスターなどが並ぶ

あまりにも違う作風で、本当に同じ人が描いたのだろうかと疑ってしまう。

美しい女性と美しい花々・・・この絵は前にどこかで見た気がする。

 

こんな機会はめったにありません。あなたも、体感してみては・・・

 

アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・ミュシャ - Wikipedia

 

 略歴     

出来事
1860年

7月24日、チェコ東部モラビア地方南部の寒村イヴァンチツェに生まれる。

1871年

聖ペテロ教会の聖歌隊員となり、その奨学金でブルノの中学に通う。

1873年

雑誌「モテツト」の表紙を描く。

1874年

声変わりにより聖歌隊を退団。そのため奨学金も打ち切られ中学を除籍となる。イヴァンチツェに戻り、父の手引きで裁判所の書記の仕事につく。

1879年

プラハ芸術アカデミーの入試に落ち、舞台装置や緞帳を作っているカウツキー・ブリオシ・ブルクハルト工房の求職に応じウィーンに移る。

1882年

リング劇場の焼失で職を失い、ウィーンを去りミクロフ(チェコ)に移る。

1883年

クーエン・ベラン伯爵と出会い、フレスコ画制作の依頼を受ける。以降、伯爵と弟のエゴン伯爵の援助を受けるようになる。

1884年

クーエン伯爵の援助を受けて、ミュンヘンの美術アカデミーに入学。

1888年

パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。

1889年

アカデミー・コラロシュに学ぶが、クーエン伯爵の自殺により援助を打ち切られる。

1891年

ゴーギャンやストリンドペリと出会う。

雑誌の挿絵を描く。

1892年

セニボス著「ドイツの歴史」の挿絵を担当。

1894年

偶然の出会いにより、サラ・ベルナール主演の恋愛劇「ジスモンダ」のポスターを制作。大変な好評を博し、一躍時代の寵児となる。

1895年

サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。

1896年

サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレックらと共に出品。

1897年

サロン・デ・サンにて個展。

ラ・ブルユム誌ミュシャを特集。

1900年

パリ万国博覧会が開催、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。

1901年

レジオン・ドヌール勲章を受章。

装飾資料集を刊行。

1904年

アメリカに招かれる。ニューヨーク、シカゴ、ボストンを訪れる。

1906年

プラハにてマリア・シティロヴァと婚礼を挙げ、アメリカに渡る。

1909年

長女ヤロスラヴァ誕生。

1910年

祖国に戻りプラハに居を構える。

スラヴ民族の歴史を綴った連作「スラブ叙事詩」の制作を開始。

1915年

長男イージー誕生。

1918年

新貨幣や切手のデザインを担当。

1928年

「スラブ叙事詩」が完成し、プラハ市に寄贈する。

1931年

聖ヴィタ大聖堂(プラハ)のステンド・グラス制作。

1936年

パリの印象派美術館でミュシャ展開催。

1939年   

7月14日、プラハにて逝去。享年79歳(亡くなる4か月前、ゲシュタボにより「危険な愛国主義者」として逮捕投獄される。帰宅後、健康を損なう) 加筆:ID:vmari

            

 

 クリアファイルを買いました

f:id:vmari:20170429002126j:plain

*1:+_+

思いは現実になる・・・(*^-^*)v

私は子供の頃、かなりマイナス思考だった。

もちろんマイナス思考という言葉は、ある程度大人になってから知った言葉だ。

 

『コンパス』を初めて見たとき、これで何をするのか? 注射みたいなものなのか?触ったらケガしそう・・・そう思っていじっていたら、指先をちょっと刺して出血してしまった。

それがのちにきれいな円を描く道具だと知って、いっぱい円を描いて遊んだ。

あの針のあとは好きになれないけど・・・

 

それに食べることにまつわるマイナス思考がいっぱいで、きっと私はこれをこぼしてしまうだろうとか、気持ちが悪くなるに違いないなどと思うと、そうなるのが常だった。

.

 私が小学校の高学年になると、ますます物事を悪く考えるようになっていた。

友達の家に遊びに行ったとき、少し曇ってくると、私はこれから大雨の中、ものすごい雷の中を帰るんだ。きっと、きっとそうだ!と思った。

するとやっぱりそうなった。

 

また、こんなこともあった。授業でわからない問題があるとき、決まって、きっとこの問題で私は当てられる・・・そして答えられない・・・なぜ前もってそんなところをみつけるのか、そんな先まで見なければ思わないだろうに・・・

そんなことが何度かあった。そして予想通りそうなった。

 

それから泳げない私は、水泳大会に出て、泳げないから当然ビリになり、とても恥ずかしい思いをする。などとどうしようもないことを考えてしまい、本当にその通りになってしまった。断ることも休むこともできたはずなのに・・・

 

そんな私がプラス思考になったのは、22歳で東京にでてきてからだ。

上京する前に、幼馴染が「易占いの相談に行くから一緒に行って」と誘いに来た。 私もせっかくだからと、「これから東京の友達のところに行くけれど、どうなんでしょうか?」と漠然と聞いてみた。

そうしたら「方角がとてもいい」ということと、「修業をしている人もいるが、あなたも静岡で修業をしてはどうですか」とも薦めてくれた。私は考えてもみなかったし、そんな難しそうなこと無理かなとも思い、少しだけ笑ってその場を離れた。

 

話がちょっとそれてしまったような気もするが、上京してすべてが変わった。

物事がスムーズに進んでいき、仕事も今までやったことのない職業に就き、人間関係にも恵まれた。

 

仕事を探す時も部屋を探す時も、ある程度自分なりのいいイメージが浮かんで、悪いことは一つも浮かばなかった。

 

仕事に慣れて、何か歌でも歌いたいな~と思った矢先に、新宿駅で声をかけられて、アマチュア合唱団にも入った。

 

そして新居を探す時、不動産屋さんがすすめてくれた2部屋の鍵を渡され、自分で見に行った。そのうちの一部屋が前からこんなところに住みたいなと思っていた部屋その部屋だったので、びっくり! 当然その部屋を選んだ。

 

私は子供の頃、自分の名字があまり好きではなかった。お寺みたいだと言った人もいた。なのでもっとどこにでもある簡単な名字になりたいと思っていた。このことはすっかり忘れていたので、結婚してしばらく経ってからふと思い出して感動してしまった。

その通りになっていたのだから。

 

その後も、夫の転勤で新しい仕事を探す時、朝10時ぐらいから5時ぐらいまでで、音楽に囲まれて仕事をしたいな~時給はいくらぐらいでとか、具体的に考えて、そして引越しの忙しさで忘れていた、ところがダメもとで受けた会社が希望通りの職場だった。

 

そしてまた転職の機会が訪れた。その時は、ドラマ『山おんな壁おんな』で着ている制服が着たいと思った。そうこうしているうちにその制服によく似た制服を着て仕事ができるようになっていた。しかもしばらくしてから、さらに好きなデザインの制服に代わり、

強く思うことは、いつのまにか現実になるのだと確信した。

 

誰にも迷惑をかけず、大きすぎない強い思いだからなのか、いつの間にか忘れてしまっているからなのかはわからないけれど、現実になると本当にうれしいものです☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静岡・・・日本平~久能山東照宮へ・・・🗻

16日(日)から一泊で夫の故郷である静岡へ行きました。

義父母が亡くなってから、めっきり足が遠のいてしまいました。

 

「実家へ帰って線香をあげておしまいじゃなんだから、久能山にでも行こう」と、すぐ上の義兄が誘ってくれました。

三人で出かけるのは、10年以上も前に浅間神社に行って以来かな~

その頃は、お義母さんも元気だったな~

お天気はあの時とおんなじぐらいいい天気なのに・・・

 

 

夏の日を思わせる青空に恵まれ、富士山を望む美しい日本平から、ロープウェイで5分のところに久能山駅があります。乗っている時間は短いのですが、そこから足腰の弱い人には苦手な階段が続きます。

階段が多いのは、日本の神社によくあることですが、階段の一段一段の高さが30センチぐらいのところが多く、えらい上りにくく杖を借りて上っている人もなんか多いな~と思ってました。

それもそのはず、久能山東照宮が建立される以前に、甲斐(山梨県)の武田信玄公により久能城が築かれており、敵が攻めにくいように、階段の高さを高く造ったそうです。これは帰りのロープウェイでアナウンスしてましたが、時すでに遅し・・・

 

国宝 久能山東照宮

ご祭神 〇贈正一位 徳川家康

      相殿(あいどの)贈正一位 豊臣秀吉

              贈正一位 織田信長

   ということは、三人の武将が祭られているのですね。

平和な世の中は、こうしてつくられていくのかもしれませんね☆

 

f:id:vmari:20170421163004j:plain

 

本殿からまた階段を上り、徳川家康公の神廟へ

f:id:vmari:20170421163420j:plain

家康公は天文11年(1542年)、12月26日 三河国岡崎城(愛知県岡崎市に生まれあらゆる艱難辛苦の末、戦国時代に終止符を打ち、江戸時代260年に亘る世界に其の比を見ない長期平和の礎を打ち立てられ、学問、産業、文化の基礎を確立し、晩年は駿府城に隠居されたが、元和2年(1616年)4月17日、75歳で薨去、御遺命によりその夜当山に葬られた。

 

あなたもどこかで見たり聞いたりしているかもしれない・・・

f:id:vmari:20170421165549j:plain

 

金のなる木も元気に育っていました。

 

f:id:vmari:20170421170121j:plain

出口近くにこんな植物が置いてありました。

f:id:vmari:20170421180211j:plain

 

 日本平から、往きのロープウェイは下り、帰りは上りです。

日本平からの眺め      富士山 ↓

f:id:vmari:20170421180931j:plain

通年富士山の見える確率は3割強だそうです。

清水港もしっかり見えています。

大型客船の寄港も増えているそうです。

 

ロープウェイの下に見える、地獄谷と屏風谷も気になります。

いまだに地盤の隆起が続いているそうです。屏風がますます高くなるのでしょうか?

写真を撮っておけばよかったかな・・・

 

 

今学期最初の面接授業(スクーリング)を受けました・・・(*^-^*)♬

放送大学は、教養学部の一学部だけですが、6つのコースがあります。

私は、『生活と福祉』コースに所属しています。今回は『人間と文化』コースの、 《愛唱歌の再検証》という科目を受講します。

ちなみに他のコースは、『心理と教育』『社会と産業』『情報』『自然と環境』です。

全国の学習センターで様々な授業が行われていて、どこの学習センターでも受講可能です。ただし、希望者が多い場合には、抽選になります。

 

これから、この科目はあと7回受講できます。

 

今日は、シューベルトとヴェルナーの、2つの「野ばら」を学び歌いました。

 

ドイツ語の単語の意味と発音を丁寧に指導していただきながら、シューベルトとヴェルナーの野ばらを、交互に歌ったりして、ドイツ語の響きやテンポや感覚の違いを感じながら、二つの野ばらに引き込まれていきました。

 

「野ばら」がゲーテの詩だとは知りませんでした。

この詩には、やはりゲーテの恋にまつわるお話があったのですね。

どんな恋だったのか調べてみました。

 

ゲーテ父親の薦める大学に通うために、フランス国境付近のシュラスブルグへ移り住んでいた。ゲーテは友人と30キロほど離れたぜーぜンハイムという村に遊びに来ていて、そこの牧師の娘フリーデリーケ・ブリオンと恋に落ちた。

 

しかしゲーテは無情にも結婚を望む彼女との恋愛を断ち切ってしまった。

理由は勉学に励むためでもあり、また結婚による束縛を嫌ったためでもあるといわれている。

「野ばら」の歌詞にはふたりの別れの様子が暗に込められていると言われることがあるが、真相の程は定かではない。

 

Worldfolksong.com より引用

 

ゲーテの野ばらは、100人を超える作曲家がそれぞれに曲を作っていて、ベートーヴェンモーツァルトブラームスなども作曲しています。

それだけ魅力的な詩なのですね。

 

こんなステキなページをYahoo!知恵袋で見つけました。

ちょっと邪道かもしれませんが、ドイツ語をほとんどしゃべれない私には宝物のようです☆☆☆

先生に教わった発音を思い出しながら練習してみます(#^^#)

          

編集あり2009/11/1623:17:04

野ばら Heidenroeslein (ハイデンルースライン)

1番
Sah ein Knab' ein Roeslein stehn,
ザー アイン クナープ アイン ルースライン シュテーン,

Roeslein auf der Heiden,
ルースライン アォフ デル ハイデン,

war so jung und morgenschoen,
ヴァール ゾー ユング ウント モルゲンシェーン,

lief er schnell, es nah zu sehn,
リーフ エル シュネル, エス ナー ツー ゼーン,

sahs' mit vielen Freuden.
ザース ミット フィーレン フロイデン.

*Roeslein, Roeslein, Roeslein rot,
*ルースライン, ルースライン, ルースライン ロート,

Roeslein auf der Heiden. ルースライン アォフ デル ハイデン.


2番
Knabe sprach: Ich breche dich,
クナーベ シュプラッハ: イッヒ ブレッヒェ ディッヒ,

Roeslein auf der Heiden!
ルースライン アォフ デル ハイデン!

Roeslein sprach: Ich steche dich,
ルースライン シュプラッハ: イッヒ シュテッヒェ ディッヒ,

dass du ewig denkst an mich,
ダス ドゥー エーヴィッヒ デンクスト アン ミッヒ,

und ich will's nicht leiden.
ウント イッヒ ヴィルス ニヒト ライデン.

*以下繰り返し


3番
Und der wilde Knabe brach
ウント デル ヴィルデ クナーベ ブラッハ

's Roeslein auf der Heiden;
'ス ルースライン アォフ デール ハイデン;

Roeslein wehrte sich und stach,
ルースライン ヴェルテ ズィッヒ ウント シュタッハ,

half ihm doch kein Weh und Ach,
ハルフ イーム ドッホ ヴェー ウント アッハ,

musst' es eben leiden.
ムスト エス エーベン ライデン.

*以下繰り返し


蛇足ながら、日本語歌詞も載せておきます。

童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ
紅(くれない)におう 野なかの薔薇

手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇

童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香(いろか)
永久(とわ)にあせぬ
紅におう 野なかの薔薇


なお、「ルースライン」の「ル」は、「ル」の口の形で(やや口をすぼめて)
暗めに「レ」と発音するように意識するとそれっぽく聞こえるかと思います。

ご参考までに。

 

講義でいただいた日本語の訳詞も載せます。

訳者のお名前を忘れてしまいました。今度はメモをとるようにします。

 

少年は一輪のばらを           

野に咲くばらを見た

それは咲きかけの美しいばらだった

少年はかけよった

そして喜んでばらを見つめた

ばらよ、ばらよ、赤い小さなばらよ

野に咲くばらよ!

 

少年は言う 「野に咲くばらよ

おまえをつみ取るよ」

野ばらは答える 「いつまでも私を

忘れることのないように、貴方を刺すわよ私は傷つきたくない」

ばらよ、ばらよ、赤い小さなばらよ

野に咲くばらよ!

 

でも乱暴な少年は

野に咲くばらをつみ取った

ばらは抵抗してとげで刺し

痛みを訴え叫んだけれど

遂にばらは傷ついてしまった

ばらよ、ばらよ、赤い小さなばらよ

野に咲くばらよ!

 

あなたも、よかったら聴き比べてみてください

 


野ばら(ウェルナー)

 

 


『野ばら』 Heidenröslein D257 Franz Schubert

 

講義のあと、受講生の3人で帰りました。

どうやらドイツ語はほぼ初心者のようでしたが、なかには英語もドイツ語も同じように話せる人もいるようです。

そういえば、みんなで歌うときハッキリドイツ語で歌っている声が聞こえていました。

私もあんな風に歌いたいです♪

 

私のお隣の席には、95歳の男子学生が座っていました。

もう20年ここで学んでいるそうです。

そうそうこの前から、第九の合唱を一緒に聴いたり、お茶したりしている学友は、20代から始めて、間もなく20年になると言ってました。彼女は仕事をしながら他の大学院の講義を受けたりして学びを深めています。

同じ20年でも、なんだかどちらも違う感動を覚えました。

一度卒業しても、また違うコースで再入学して学んでいる人が、かなりいるようです☆

 

 

放送大学も新学期・・・📖(#^^#)

新学期に突入して、すでに2週間

今学期は、これらを学びます。

 

f:id:vmari:20170416105814j:plain

3回まで進んでるのもあれば、全く手つかずのもあります。

↑のテキストが印刷教材です。

これとテレビやラジオ、インターネット、DVD.語学ではCDも使います。

私は主にパソコンを使っています。

2015年から、オンライン授業も始まり、私も昨年度の2学期に「感性工学入門」と「がんを知る」の2科目を受講しました。

かなり中身が濃く、最新の情報を知ることができ、ディスカッションも、幅広い年齢層と様々な職業の方々が学んでいるためか、多岐にわたるトピックができて、かなり読みごたえがありました。

もちろん私も、投稿しました。

もしかしたらそのおかげで、投稿癖がついてしまったのかもしれません。

ブログを始めたきっかけになったようです。

 

とくに、「遠隔学習のためのパソコン活用」に力が入ります。

なぜって、Windows10  の基礎的なことから学べるので、うれしい限りです。

思えば、パソコンスクールにも講座にも通わずに、仕事に必要なものだけ、誰かに教えてもらったり、自分であちこち触ってたまたまできたりといった状態でした。

これで少しまともにできるようになると思うと楽しいです。

今思うと、オンライン授業でファイルを作ってアップして送れたものだと感心してしまいます。

大変でしたけど、やればできるんですね。